書き出せたところが、技のぜんぶだと思ってしまう
ベテランのやり方を書き出せば引き継げる、という話がある。ところが、書き出せたところを全部集めても、当のベテランは「そこじゃない」と言う。語れる以上のことを、人は知っているからだ。書けた部分が、技の全部だと思ってしまうところに、伝承のいちばんの穴がある。
前の単位では、流れを止めている一か所を見つけて手を打つ話を扱った。ここでは、その流れを回している人の腕——熟練の技を、どう次の人へ渡すのかを扱う。ここから段はひとつ進んで、標準と仕組みと現場力の先にある、伝承と進化の話になる。
この単位が扱うのは一点——熟練の技を「マニュアル・標準書・動画に落とし込めば伝わる」という言い方が、技のうち言葉になる部分だけを見ていることである。伝承の努力そのものを否定する話ではない。ベテランを退職前に絞り取る対象として扱う話でも、誰かを観察して評価する話でもない。ここで問うのは一つ——書き出せたものは、技の全部なのかである。
この俗説は、いろいろな入口から降りてくる。熟練者がまとめて現場を去る時期をめぐる不安、それを補うためのデジタル化や自動化の売り文句、ベテランのやり方を映像に残そうという掛け声。どれも「書き出せば残る」「残せば伝わる」という前提を共有している。一人で作って一人で検品している小さな現場にも、「自分のやり方を書いておけば、いつか誰かに引き継げる」という形で、同じ前提が降りてくる。前提が広く共有されているからこそ、それが本当に成り立つのかを、一度立ち止まって見ておく値打ちがある。
「語れる以上のことを、私たちは知っている」
手がかりの源流は、1966年の一冊にある。マイケル・ポランニーの *The Tacit Dimension*(邦題『暗黙知の次元』)は、有名な一句から始まる——“We can know more than we can tell.” 人は、語れる以上のことを知っている。 自転車に乗れる人が、乗り方をどれだけ言葉にしても、その言葉だけで別の人が乗れるようにはならない。知っていることと、語れることのあいだには、いつも差がある。 この、言葉になりきらない知を、ポランニーは暗黙知(英語では tacit knowledge、はっきり口に出せないまま身についている知のこと)と呼んだ。
ひとつ断っておく。この本は査読を受けた実験論文ではなく、哲学の書物である。だから「語れる以上を知っている」は、統計で確かめられた効果量ではなく、ものの見方の提案として受け取るのがよい。それでもこの見方は、熟練の技を扱うときの土台になる。マニュアルや標準書や動画が掬えるのは、語れる部分だ。 語れない部分は、そこに写らない。写らなかったものは、文書には残らない。
視覚検査の熟練は、作業者の頭の中にしかない
この見方を、製造の現場で正面から確かめた研究がある。2019年に *Applied Ergonomics* 74:1-9 へ出た論文(Johnson・Fletcher・Baker・Charles、英国の製造業の二つの事例)は、目で見て良し悪しを見分ける視覚検査の熟練を調べた。そして、はっきりこう書いている——こうした技能は、いまのところ他の作業者と形式的には共有できない。なぜなら、熟練者の内的な認知の中にしか存在しない、高い水準の暗黙知を含んでいるからだ(“…at present these skills cannot be formally shared with other workers … because they involve a high level of tacit knowledge which only exists in skilled operators’ internal cognitions.”)。
さらにこの研究は、暗黙知がどこで特に要るのかも指している——視覚検査の標準が細かく決まっておらず、主観的な解釈がより多く要るときほど、暗黙の技が必要になる(“…tacit skills are particularly needed when visual inspection standards lack specification or the task requires greater subjective interpretation.”)。判断の余地が大きい仕事ほど、文書で掬えない部分が増える。 マニュアルを厚くするほど伝わる、という向きとは逆である。書ける仕事は書けばよいが、書けないところにこそ、熟練の核が残っている。 この論文自体は「暗黙知を失う前に捉えるべきだ」という立場だが、そのためにわざわざ特別な課題分析の手法を持ち出していること自体が、普通のマニュアルでは共有できないことの裏返しである。
コード化しても、暗黙知は消えない
では、書けるところをどんどん書いていけば、いつか暗黙知はゼロになるのか。ここも、そう単純ではない。2002年に *Research Policy* 31(3):357-379 へ出た研究(Balconi、鉄鋼・半導体・金属加工などの技術知が題材)は、技術の知識をコード化(記号や手順に書き起こして誰でも読める形にすること)していく動きを追った。そして、コード化が進んでも、暗黙知はそれと入れ替わりに消えるのではなく、コード化と補い合って残ることを示している。書き起こした手順を実際に使いこなすには、やはり書かれていない勘が要る。コードは暗黙知を置き換えるのではなく、暗黙知の上で動く。 だから「全部書けば、勘は要らなくなる」は成り立たない。書けば書くほど、それを読みこなすための書けない部分が、また必要になる。
制度があることは、技が伝わった証明ではない
現場には、技を渡すための立派な様式がいくつもある。腕を競う国際大会の技能五輪、職人の親方資格を定めるマイスター制度、国が実技と学科で腕を認める技能検定——どれも実在し、長く続いている。ここで、この棚を貫く見方を一つ置く。様式が実在することと、技が実際に伝わったことは、別である。 制度があるという事実は、その制度を通って技が本当に次の人の手に宿ったことの証明にはならない。道具の由緒と、効果の証明は別物だ——これが★321で置いた、この棚の通奏低音の一つである。検定に受かった人が増えたことは、検定に受かる力が測れたことであって、現場で同じ判断ができることの実証とはかぎらない。様式の厚みを、伝承の成果と読み替えない。 これは制度を否定する話ではない。制度は技を渡す努力の器であって、器があること自体が中身の証明ではない、というだけである。
時間・変化:技の伝わり方は1966年から2019年までどう見られてきたか
順に置く。1966年、人は語れる以上のことを知っている、という見方が哲学の書物として示される。技の核が言葉になりきらないこと、その土台がここに置かれる。2002年、技術の知識をコード化しても暗黙知は消えず補い合って残ることが、複数の産業の実証として整理される。2019年、視覚検査という具体の作業で、熟練が作業者の頭の中にしか存在せず形式的には共有できないことが、製造現場の事例で示される。
半世紀をかけて確からしくなったのは、「どう書けば全部伝わるか」ではなく、書いても残る部分がどこにあるか、のほうである。 伝わらせる万能の書式が見つかったのではない。書けない核が、繰り返し別の角度から確かめられただけである。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、書き出せたところを、技の全部だと思ってしまうことである。文書は、技のうち語れた部分だけを映す。映らなかった部分は、文書の上では存在しないように見える。だから、立派なマニュアルほど「もう伝えた」という錯覚を強くする。
標本の偏りも断っておく。ここまでの証拠は、視覚検査や、鉄鋼・半導体・金属加工といった、技を語れる規模と記録を持つ現場から採られている。一人で作って一人で検品している小さな工房では、暗黙知は「自分の手が勝手に動く」という形で出ていて、そもそも書き出す相手も機会もないことが多い。大きな組織なら別の人へ渡す前提で技を言葉にするが、一人の現場では、技は本人の反復の中に溶けたままである。
助けになるのは、技を「読めば伝わるもの」ではなく「やって身につくもの」として扱い直すという一手である。伝承は、文書を渡して終わりではなく、観察と、真似と、繰り返し——つまり時間を要する。文書は、その繰り返しの手がかりにはなるが、繰り返しそのものを飛ばす近道にはならない。だから、マニュアルが薄いことを恥じる必要も、厚いことに安心する必要もない。大事なのは、書けた部分と書けなかった部分の境目が、自分に見えていることのほうである。 次の単位で扱う立ち上げの学習も、同じ性質を持っている。技は、書き写す速さでは伝わらず、やって減っていく速さでしか伝わらない。
最初の一歩は10分。自分が「体が覚えている」と感じる作業を一つ選び、その手順を、いま言葉にできるところまで書き出してみる。書けたら、そのメモを読み返し、これだけ読んで、初めての人が同じようにできるかを、自分に問うてみる。書けなかった勘所——「なんとなく」「手が覚えている」としか言えない部分——が、いくつ残ったかを数える。ゼロなら、それはそれで一つの発見だ。多くの場合、書き始めると、書けない部分のほうが先に見えてくる。
次の単位は 334「立ち上げを早くするには?」——計画を作り込めば量産の立ち上げは速くなるのか、それとも学習には飛ばせない時間があるのかを、ここに積み上げる。
- 1966年の Polanyi『The Tacit Dimension(暗黙知の次元)』は「We can know more than we can tell(人は語れる以上のことを知っている)」と述べた。これは査読された効果量ではなく哲学書の見方だが、熟練の核が言葉になりきらない暗黙知であることの土台になる。マニュアル・標準書・動画が掬えるのは語れる部分だけである
- 2019年に Applied Ergonomics 74:1-9 へ出た Johnson らの研究(英国製造業の二事例)は、視覚検査の熟練が熟練者の内的認知にしか存在せず、いまのところ形式的には他の作業者と共有できないと示した。俗説「マニュアル化で伝わる」の直接の反証である
- 同じ2019年の研究は、視覚検査の標準が曖昧で主観的な解釈が多く要るときほど暗黙の技が必要になると報告した。判断の余地が大きい仕事ほど文書で掬えない部分が増え、マニュアルを厚くするほど伝わるという向きとは逆になる
- 2002年に Research Policy 31(3):357-379 へ出た Balconi の研究は、技術知をコード化しても暗黙知は入れ替わりに消えるのではなく補い合って残ることを、鉄鋼・半導体・金属加工などの実証で示した。コードは暗黙知を置き換えず、暗黙知の上で動く
- 技能五輪・マイスター制度・技能検定という様式は実在するが、様式が存在することと技が実際に伝わったことは別である。制度がある事実は伝承が成った証明にはならない(★321の通奏低音=道具の由緒と効果の証明は別物)
- 妨げるものの筆頭は、書き出せたところを技の全部だと思うことである。文書は語れた部分だけを映し、映らなかった部分は存在しないように見えるため、立派なマニュアルほど「もう伝えた」という錯覚を強くする
- 1966年に見方が示され、2002年にコード化と暗黙知の補完が整理され、2019年に視覚検査の事例で形式的共有の不可能が確かめられた。半世紀で確からしくなったのは、どう書けば全部伝わるかではなく、書いても残る部分がどこにあるかである。伝承は観察・模倣・反復という時間を要する
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 熟練工の勘やコツをマニュアル・標準書・動画に落とし込めば、若手に伝わって技能は継承される | 1966年の Polanyi の命題「We can know more than we can tell(人は語れる以上のことを知っている)」が指すように、熟練の核は言葉になりきらない暗黙知である。2019年の Applied Ergonomics 74:1-9 の研究は、視覚検査の熟練が作業者の内的認知にしか存在せず形式的に共有できないと示した。マニュアル化で掬えるのは形式にできる部分だけで、それを読めば全体が再現できるわけではない |
| 標準や手順さえきちんと書けば、判断の要る仕事も文書だけで引き継げる | 2019年の研究は、視覚検査の標準が曖昧で主観的な判断が要る場面ほど、暗黙知が必要になると報告した。判断の余地が大きい仕事ほど文書化で掬えない部分が増える。書けば書くほど伝わるのではなく、書けないところにこそ技の核が残る |
| マイスター制度や技能検定のような様式があれば、技はちゃんと伝わっている | 技能五輪・マイスター制度・技能検定という制度や様式は実在するが、様式が存在することと、技が実際に伝わったことは別である。道具の由緒と効果の証明は別物であり、制度がある事実は伝承が成った実証にはならない |
皮肉なのは、書き出せば書き出すほど、伝えた気持ちが確かになることである。分厚いマニュアルは、手に取れる。だから、そこに技が入っている気がする。ところが、いちばん渡したかった勘所は、たいていその紙には写っていない。写せた部分がどれだけ増えても、写せなかった部分は、写せなかったことすら見えないまま残る。ベテランが去ったあとで足りないと気づくのは、書いてあることではなく、書いてなかったのに毎日使われていた何かのほうである。
Q1. 1966年のポランニーの命題によれば、人は【 ① 】以上のことを知っている。熟練の核にあるこの言葉になりきらない知を【 ② 】と呼ぶ。マニュアル・標準書・動画が掬えるのは【 ① 】部分だけである。穴埋め
Q2. 2019年の Applied Ergonomics の研究は、視覚検査の熟練についてどんな性質を示したか。標準が曖昧な場面で何が起きるかも含めて1〜2文で説明せよ。一問一答
Q3. 2002年の Balconi の研究が、技術知のコード化について示したことはどれか。選択
Q4. 技能五輪・マイスター制度・技能検定のような様式が実在することは、何の証明になり、何の証明にはならないか。この棚の通奏低音に触れて書け。一問一答
Q5. この単位で扱った出来事を、年の早い順に並べよ。(ア)視覚検査の熟練が作業者の頭の中にしか存在せず形式的に共有できないことが製造現場の事例で示される(イ)人は語れる以上のことを知っているという見方が哲学の書物として示される(ウ)技術知をコード化しても暗黙知は消えず補い合って残ることが複数産業の実証で整理される並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、自分が『体が覚えている』『手が勝手に動く』と感じる作業を一つ選び、その手順を、いま言葉にできるところまで書き出す。書けたら、そのメモを読み返し、これだけを読んで初めての人が同じようにできるかを、自分に問う。読み返しながら、なんとなく・手が覚えている・見れば分かる、としか言えない勘所に印を付け、最後にその数を1つの数字で書き添える。同僚やベテランに聞き取りをしたり、誰かのやり方を観察して評価したりはしない——あくまで自分の技と記憶から書き出すだけである。いま一人で全部を回している場合は、その勘が本人の反復の中に溶けていて、渡す相手も機会もないこと自体が、この単位の言う書けない核である。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Polanyi M. (1966) 『The Tacit Dimension』, Routledge & Kegan Paul / Doubleday(再録版 1997, Knowledge in Organizations 所収, doi:10.1016/b978-0-7506-9718-7.50010-x) — doi.org
- Johnson C.G., Fletcher S.R., Baker N., Charles R.L. (2019) 'How and why we need to capture tacit knowledge in manufacturing: Case studies of visual inspection', Applied Ergonomics 74:1-9, doi:10.1016/j.apergo.2018.07.016 — doi.org
- Balconi M. (2002) 'Tacitness, codification of technological knowledge and the organisation of industry', Research Policy 31(3):357-379, doi:10.1016/S0048-7333(01)00113-5 — doi.org
- WorldSkills International(技能五輪国際大会、1950年設立) — worldskills.org
- ドイツ手工業法(Handwerksordnung)に基づくマイスター(Meister)制度(現行法は1953年制定・以後改正)、ドイツ手工業中央連盟(ZDH) — www.zdh.de
- 技能検定制度(日本、職業能力開発促進法に基づく国家検定・1969年の法制定に由来)、中央職業能力開発協会(JAVADA) — www.javada.or.jp