表が空欄のときには、起きない間違いがある
リスク評価表で備えられる、と言われる。表を埋めると、順位がついた気になる。ただしその順位は、リスクそのものではなく、マス目の切り方から出てくることがある。そして表に行があるのは、あらかじめ想像できたリスクだけである。
前の単位では、起きてしまった滞りに、どう気づくのかを扱った。ここでは、まだ起きていない滞り——供給のリスクに、どう備えるのかを扱う。
この単位が扱うのは一点——「リスク評価表で備えられる」という言い方が、どこまで本当かである。 会社全体が生き延びる力の話はしない。どのリスクが実際に起きるかも予測しない。ここで見るのは、供給のリスクを評価表で測ること自体が、どこまで確かかである。
リスク評価表とは、頻度と深刻さのマス目である
まず言葉をほどく。よく使われるのは、起こりやすさ(頻度)を縦に、起きたときの深刻さを横に取ったマス目である(リスクマトリクス)。それぞれのリスクを、どのマスに入るかで格付けし、危ないマスに色を塗る。ISO 31000のような標準がこの考え方を後押しし、コンサルの資料が「ベストプラクティス」として広めた。表を埋めると、備えができた気になる。 問題は、その表が、どこまで正しく順位をつけられているかである。
同じマスに、大きく違うリスクが入る
2008年に *Risk Analysis* 28(2):497-512 へ出た研究は、このマス目そのものの数学的な欠陥を調べた。要旨は、まず前提を突く——この道具が実際にリスク管理の判断を良くすると、厳密に確かめた研究はほとんど無い。 そのうえで、いくつかの欠陥を挙げる。
一つ目は、分解能の低さである。要旨の言葉では——典型的なリスクマトリクスは、ランダムに選んだ危険の対のうち、正しくはっきり比較できるのは、ごく一部(たとえば1割未満)にすぎない。 そして、量的に大きく違うリスクに、同じ格付けを与えてしまう(レンジ圧縮、“range compression”)。
つまり、表の同じマスに入った二つのリスクは、「同じくらい危ない」のではなく、マス目が粗いせいで区別がつかなかっただけかもしれない。危ないマスの色は、区別できたことの証ではない。マス目を細かくすれば直るかというと、そう単純でもない。細かくすれば、こんどはどの線でマスを区切るかという決めの問題が、いっそう重くのしかかる。区切りの位置がひとつずれれば、同じリスクが隣のマスへ移る。分解能を上げるほど、順位は、区切り方の細かい決めに敏感になっていく。
逆相関のときは、ランダムより悪くなりうる
同じ研究は、もっと強い指摘もしている。量的にはより小さいリスクに、より高い格付けを与えてしまうことがある。とくに、起こりやすさと深刻さが負の相関を持つ領域——めったに起きないが起きれば甚大、あるいは、しょっちゅう起きるが軽い——では、リスクマトリクスは「役に立たないどころではない」(“worse than useless”)、つまりでたらめに決めるより悪い判断へ導きうる、と要旨は書いている。供給の現場でいちばん気になるのは、まさにこの「めったに起きないが起きれば甚大」の側である。ところが、その領域こそ、マス目がいちばん頼りにならない。いちばん備えたいところで、道具はいちばん外す。 そして——表があるのに、表があるせいで順位を取り違える。 これは、表が空欄のときには起きない種類の間違いである。空欄なら、少なくとも「まだ分かっていない」と分かる。埋まった表は、分かったふりをさせる。
順位は、区切り方という恣意的な選択で決まる
なぜそんなことが起きるのか。2014年に *SPE Economics & Management* 6(2):56-66 へ出た研究は、産業の現場でこの表がどう使われているかを調べ、表が生む順位は、恣意的な選択に依存する(“the ranking produced by a RM depends upon arbitrary choices”)と結論した。
具体例が分かりやすい。「頻繁に起きる」という同じ言葉を、ある文書は「年に1回より多い」と定義し、別の文書は「10年に1回より多い」と定義していた。 同じ出来事が、どちらの物差しを使うかで、まったく違うマスに入る。2008年の研究も、同じところを突いている——深刻さの格付けは、不確かな結果については客観的に決められず、同じ量的なリスクでも、利用者が違えば逆の格付けになりうる。 順位は、リスクそのものではなく、マス目の切り方から出てくる。
「基準がある」ことは、「正しい」ことではない
ここで、標準の性格を正しておく。ISO 31000(現行の版は2018年に出ている)は、認証を与える規格ではなく、指針(ガイダンス)である。リスクマトリクスを使えとは義務づけていない。 「標準に沿っているから正しい」という言い方は、標準の性格を取り違えている。この点は、法の解釈の話ではなく、標準がどういう文書かという事実の話である。
方法そのものへの疑問は、ほかにもある。2010年に *IBM Journal of Research and Development* 54(3) へ出た研究は、点数をつける方法や順序の目盛りが持つ欠陥を扱っている。順序の目盛り——「大・中・小」や「1・2・3」——は、順番を表すだけで、間隔がそろっていない。にもかかわらず、格付けの現場では、それを掛けたり足したりして総合点を出すことがある。順番しか表さない数字を計算にかけると、出てきた総合点は、計算の見た目ほどには意味を持たない。 2016年に *European Journal of Operational Research* 253(1):1-13 へ出た総説は、リスク評価の土台そのものを見直し、2005年に *Risk Analysis* 25(3):651-662 へ出た研究(2008年の研究の前段)も、定性的な格付けの限界を早くから指摘していた。表の見た目の整い方と、順位の確かさは、別のことである。
評価表に載るのは、想像できたリスクだけである
最後に、いちばん大事なところを言う。評価表に並ぶのは、あらかじめ想像できたリスクだけである。思いつけなかったこと、そもそも存在に気づいていないことは、表に行が無い。
評価表そのものが、「見える所だけ見える」の装置である。 恣意的に切ったマス目と、誰かが見積もった数字が、表になって並ぶと、見えていない不確かさまで、客観的な色に見えてくる。 色が塗られているのは、想像できた範囲の中だけである。表の外側の白い部分は、危険が無いのではなく、行を立てられなかっただけである。前の二つの単位とつながっている——見渡せていない上流も、監視の外の滞りも、評価表の外の想像できなかったリスクも、どれも「見える所だけ見える」の同じ縁で起きている。 表は、その縁を、はっきりした線として引いてくれるわけではない。埋まったマスと白い余白の境目は、危険の境目ではなく、想像力の境目である。
時間・変化:2005年から2016年まで
順に並べる。2005年、定性的な格付けの限界が指摘される。2008年、リスクマトリクスの数学的な欠陥——分解能の低さ、レンジ圧縮、負の相関の領域でランダムより悪くなりうること——が示される。2010年、点数化と順序の目盛りの欠陥が扱われる。2014年、産業の現場で、順位が区切り方という恣意的な選択に依存することが示される。2016年、リスク評価の土台そのものが見直される。
11年で確からしくなったのは、備えの厚みではなく、「評価表で測れる」という言い方の危うさのほうである。 道具は広く使われ続けているのに、それが判断を良くすると厳密に確かめた研究は、いまも乏しい。付け加わったのは、より正確な評価表ではなく、評価表の限界の目録のほうだった。分解能の低さ、レンジ圧縮、負の相関の領域での逆転、順序の目盛りを計算にかけることの無理、そして区切り方の恣意性。指摘は積み上がっているのに、現場に配られる表の形は、11年でほとんど変わっていない。ここでも、道具の側と、確かめられたことの側とのあいだに、隔たりが残っている。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、表を埋めたことを、備えたことと取り違えることである。マスが埋まり、危ないマスに色がつくと、順位がついたように見える。だが、その順位は、リスクそのものではなく、マス目の切り方から出てきているかもしれない。
標本の偏りを断っておく。表に載るのは、想像できたリスクだけである。そして——止まらなかった話は、止まらなかった側から書かれやすい。 表に書き込まれるリスクの多くは、過去に起きて記録に残ったものから採られる。記録に残らなかった途絶、誰も想像しなかった途絶は、行が立たない。表は、過去に思いつけた範囲の地図である。
助けるのは、各項目の「起こりやすさ」と「深刻さ」が、数値の根拠を持つのか、誰かの見積りなのかを、分けて数えるという一手である。見積りが悪いのではない。備えの多くは、根拠となる数字が無いところで、それでも判断しなければならない場面から始まる。見積りに頼ること自体は避けられない。肝心なのは、見積りを、客観的な数値のような顔で表に並べないことである。どの色が見積りから来ていて、どの色が記録から来ているのかが分かっていれば、同じ表でも読み方が変わる。色の濃さではなく、その色がどこから来たかを見る癖をつけると、表に振り回されずに済む。
最初の一歩は10分。手元にあるリスクの一覧やチェックリストを1つ選び、各項目の「起こりやすさ」「深刻さ」に、数値の根拠があるか、誰かの見積りかの印を付けて、それぞれ何件あるかを数える。
次の単位は 316「需給を合わせ込むには?」——リスクを見積もる話の上に、日々の需要と供給をどう突き合わせるのかを重ねる話。
- 2008年に Risk Analysis 28(2):497-512 へ出た研究(Cox)は、リスクマトリクスが実際に判断を良くすると厳密に確かめた研究はほとんど無いと述べ、典型的なマトリクスはランダムに選んだ危険の対の1割未満しか正しく比較できず、量的に違うリスクに同じ格付けを与える(レンジ圧縮)と報告した
- 同じ2008年の研究は、量的により小さいリスクにより高い格付けを与えることがあり、起こりやすさと深刻さが負の相関を持つ領域では『役に立たないどころではない』(でたらめに決めるより悪い判断へ導きうる)と述べた。表があるせいで順位を取り違える種類の間違いである
- 2014年に SPE Economics & Management 6(2):56-66 へ出た研究(Thomas ら、産業の現場でのリスクマトリクス30本超と標準を検討)は、表が生む順位は恣意的な選択に依存すると結論した。ある文書は『頻繁に起きる』を年1回超、別の文書は10年に1回超と定義しており、同じ出来事が別のマスに入る
- 深刻さの格付けは不確かな結果については客観的に決められず、同じ量的なリスクでも利用者が違えば逆の格付けになりうる(2008年の研究)。順位はリスクそのものではなく、マス目の切り方から出てくる
- ISO 31000は認証を与える規格ではなく指針(ガイダンス)であり、リスクマトリクスを使えとは義務づけていない。『標準に沿っているから正しい』は標準の性格を取り違えている(これは法の解釈ではなく、標準がどういう文書かという事実の話である)
- 2010年に IBM Journal of Research and Development 54(3) へ出た研究(Hubbard & Evans)は点数化と順序尺度の欠陥を、2016年に European Journal of Operational Research 253(1):1-13 へ出た総説(Aven)はリスク評価の土台を、2005年に Risk Analysis 25(3):651-662 へ出た研究(Cox ら)は定性的な格付けの限界を扱った。表の見た目の整い方と順位の確かさは別のことである
- 評価表に並ぶのは、あらかじめ想像できたリスクだけである。表そのものが『見える所だけ見える』の装置で、恣意的なマス目と誰かの見積りが並ぶと、見えていない不確かさまで客観的な色に見えてくる。表に書き込まれるリスクの多くは過去に記録に残ったものから採られ、記録に残らなかった途絶は行が立たない
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| リスク評価表を埋めれば、供給リスクに備えられる | 2008年の Risk Analysis 28(2) の研究では、典型的なリスクマトリクスはランダムに選んだ危険の対の1割未満しか正しく比較できず、量的に違うリスクに同じ格付けを与えることがある。表を埋めたことは、順位が正しくついたことではない。それが判断を良くすると厳密に確かめた研究も乏しい |
| 起こりやすさと深刻さのマス目は、少なくともランダムよりはましだ | 2008年の研究は、起こりやすさと深刻さが負の相関を持つ領域では、リスクマトリクスが『役に立たないどころではない』、つまりでたらめに決めるより悪い判断へ導きうると述べた。量的により小さいリスクに、より高い格付けを与えることがある。これは表が空欄のときには起きない間違いである |
| 標準(ISO 31000)に沿って評価表を作っているのだから、方法は正しい | ISO 31000は認証を与える規格ではなく指針で、リスクマトリクスを義務づけていない。2014年の SPE Economics & Management 6(2) の研究は、順位が区切り方という恣意的な選択に依存すると示した。標準があることと、順位が正しいことは別である(これは法の解釈ではなく、標準がどういう文書かという事実の話である) |
皮肉なのは、この道具のいちばんの働きが、備えることではなく、備えた気にさせることかもしれない、という点である。マス目を埋め、危ないマスに色を塗ると、順位がついたように見える。ところがその順位は、リスクそのものではなく、誰かが決めたマス目の切り方から出てきている。しかも、いちばん備えたいはずの、思いつけなかった途絶には、そもそも行が無い。色が塗られているのは、想像できた範囲の中だけ。表がいちばん自信たっぷりに見えるのは、たぶん、表に載っていないものが、いちばん多いときである。
Q1. 2008年の Risk Analysis 28(2) の研究が、典型的なリスクマトリクスについて報告した内容として正しいものはどれか。選択
Q2. 2008年の研究は、起こりやすさと深刻さが「負の相関」を持つ領域で、リスクマトリクスがどうなりうると述べたか。1文で書け。一問一答
Q3. 2014年の SPE Economics & Management 6(2) の研究によれば、表が生む順位は【 ① 】な選択に依存する。例として、『頻繁に起きる』を、ある文書は年【 ② 】回より多い、別の文書は【 ③ 】年に1回より多いと定義していた。穴埋め
Q4. 本文によれば、ISO 31000は認証を与える規格ではなく【 ① 】(ガイダンス)であり、リスクマトリクスを使えとは【 ② 】。『標準に沿っているから正しい』は標準の【 ③ 】の取り違えである。穴埋め
Q5. この単位で扱った出来事を、年の早い順に並べよ。(ア)順位が区切り方という恣意的な選択に依存することが示される(イ)定性的な格付けの限界が指摘される(ウ)リスクマトリクスの数学的な欠陥が示される(エ)リスク評価の土台そのものが見直される並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。自分の手元にあるリスクの一覧・チェックリスト・点検表を1つ選ぶ(自分で作ったものでも、受け取ったものでもよい)。各項目の『起こりやすさ』と『深刻さ』について、そこに数値の根拠(過去の記録・実測など)があるものには『根』、誰かの見積り・印象で決まっているものには『見』の印を付ける。判別できないものには『?』を付ける。最後に、根・見・?の件数をそれぞれ数えて書く。項目の中身の当否は判定しない。手元の一覧が無い場合は、いま自分が気にかけている『切らしたくないもの』を数個書き出し、それぞれの起こりやすさを自分が数値で言えるか見積りかで同じ印を付ければ成立する。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
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- Cox L.A. Jr. (2008) 'What’s Wrong with Risk Matrices?', Risk Analysis 28(2):497-512, doi:10.1111/j.1539-6924.2008.01030.x — doi.org
- Thomas P., Bratvold R.B., Bickel J.E. (2014) 'The Risk of Using Risk Matrices', SPE Economics & Management 6(2):56-66, doi:10.2118/166269-PA — doi.org
- Hubbard D.W., Evans D. (2010) 'Problems with scoring methods and ordinal scales in risk assessment', IBM Journal of Research and Development 54(3):2:1-2:10, doi:10.1147/JRD.2010.2042914 — doi.org
- Aven T. (2016) 'Risk assessment and risk management: Review of recent advances on their foundation', European Journal of Operational Research 253(1):1-13, doi:10.1016/j.ejor.2015.12.023 — doi.org
- Cox L.A., Babayev D., Huber W. (2005) 'Some Limitations of Qualitative Risk Rating Systems', Risk Analysis 25(3):651-662, doi:10.1111/j.1539-6924.2005.00615.x — doi.org
- 国際標準化機構 ISO 31000:2018 Risk management — Guidelines(指針・認証規格ではない、2026年閲覧) — www.iso.org