「マルチプルで割安割高がわかる」は、どの物差しを選ぶかで裏返る
PERやEV/EBITDAを見れば、その会社が割安か割高かわかる——そう言われる。ところが物差しを比べた研究を開くと、どの数字で倍率を作るかで説明力が激変し、売上で作った倍率は最悪だった。同じ会社でも、選ぶ物差しと比べる相手を変えれば、結論は裏返る。しかも会社の値段に効くとされる無形資産は、その会計自体が経営者の裁量に委ねられている。
前の単位では、会社が元手をどれだけ効率よく使えているのかを扱った。ここでは、その会社に市場がつける値段の物差し——マルチプルと、無形資産を扱う。
この単位が扱うのは一点——「マルチプルを見れば割安割高がわかる」という言い方が、どこまで確かめられているかである。どの株が割安か、この倍率は妥当か、のれんは何年で償却すべきか——そういう判断は書かない。会計基準についても、良し悪しは評価せず、何をどう測ると定めているかの事実だけを書く。
どの数字で倍率を作るかで、説明力が激変する
マルチプルとは、会社の値段を、利益や売上といった何かで割った倍率である。割る相手(物差し)は一つではない。
2002年に *Journal of Accounting Research* 40(1):135-172 に出た論文は、どの物差しで倍率を作ると価格をよく説明できるかを比べた。要旨の一句はこうである。“…multiples derived from forward earnings explain stock prices remarkably well: pricing errors are within 15 percent of stock prices for about half our sample.”——予測利益から作った倍率は株価を際立ってよく説明し、価格づけの誤差が価格の15%以内に収まるのは標本の約半分である。そして順位が続く。“…forward earnings measures are followed by historical earnings measures, cash flow measures and book value of equity are tied for third, and sales performs the worst.”——予測利益に次ぐのが実績利益、キャッシュフローと簿価が同順で三番手、そして売上がいちばん悪い。
ここで慎重に書く。 この研究は「マルチプルは全部だめ」とは言っていない。むしろ予測利益の倍率は案外よく効く、寄りの結果でもある。値切りは効き目の否定ではなく、どの物差しを選ぶかで説明力がこれだけ動くという分散の大きさのほうにある。同じ会社を、予測利益で測るか売上で測るかで、見える姿が変わる。
誰を「同業」とみなすかで、暗示される値段が変わる
物差しを選んだあとにも、選択が残る。「同業と比べて何倍」の、その同業を誰にするかである。
2002年に *Journal of Accounting Research* 40(2):407-439 に出た論文は、この「誰が自分のpeerか」を正面から扱った。評価の理論から各社にふさわしい倍率を導き、それにいちばん近い会社を比較対象に選ぶ、という手続きを組み、比較対象の選び方によって、将来の倍率をどれだけ当てられるかが変わることを示した。1992年に *Journal of Accounting Research* 30(1):94-108 に出た、より早い論文も同じ問いを扱い、株価収益率(PER)による評価の正確さが、比較企業をどう選ぶか(産業でくくるか、規模や収益性や成長で選ぶか)で変わること、そして産業を3桁の分類でくくる素朴なやり方が、ほかの手続きと同じくらいには効くこと、成長を考えに入れると精度が上がることを報告している。
つまり、割安割高は、二重に選ばれている。 どの物差しで倍率を作るか、そして誰を同業とみなすか。両方を選び終えたあとで、はじめて「割安」とも「割高」とも言える。 物差しそのものは客観的に見える。ただし、どの物差しを手に取るかは、客観ではない。
値段を動かすとされる部分は、その会計が裁量に委ねられている
もう一つ、市場評価でよく主語になるのが、目に見えない資産——のれんや、無形資産である。会社を買ったときに払った額のうち、目に見える資産で説明できない部分が、のれんとして帳簿に載る。では、その価値は、どう測られているのか。
2012年に *Review of Accounting Studies* 17(4):749-780 に出た論文が、それを検証した。米国の会計基準(SFAS142)は、のれんが目減りしたかどうかを、経営者にその公正価値を見積らせて判断させる。 要旨の一句はこうである。“The current fair value of goodwill is unverifiable because it depends in part on management's future actions…”——のれんの現在の公正価値は、一部は経営者の将来の行動に依存するため、検証できない。まだ起きていない行動に依存する値は、外から確かめようがない。基準は、経営者が私的な情報を減損の判断を通じて市場に伝えることを期待していた。だが要旨はこう続ける。“Our evidence, while consistent with some agency-theory based predictions, does not confirm the private information hypothesis.”——証拠は、いくつかの代理人理論の予測とは整合するものの、私的情報を伝えているという仮説を裏づけない。
ここは、粉飾のやり方の話ではない。 読む側の警戒として書く。のれんや無形の会計は、事実として、経営者の裁量に委ねられた部分を含む。 だから帳簿の無形の額を、測られた真実として鵜呑みにはできない。国際的な会計基準(のれんの減損を扱うものと、無形資産の認識を扱うもの)も、何を無形として、どの時点で、どう測るかを定めてはいるが、その多くは見積りに依存する。基準は「どう測ると定めているか」を教えるのであって、「いくらか」を保証するのではない。
そのうえ、財務の数字が写せる範囲は狭まってきた
1999年に *Journal of Accounting Research* 37(2):353-385 に出た論文は、もっと大きな流れを報告している。利益・キャッシュフロー・簿価といった財務の数字が、投資家にとってどれだけ有用かは、過去20年で下がってきた。 会社の活動や経済の実態の変化を、いまの報告の仕組みが十分には写せていない、というのである。その背景にあるとされるのが、まさに無形の増加である——研究開発やブランドや仕組みのような、帳簿に載りにくいものが値段の中心になるほど、帳簿の数字と値段のあいだの距離が開く。
測れるところだけが測られている。 そして測れる範囲は、値段の中身が無形へ寄るほど、狭くなってきた。
時間・変化:物差しの精度から、物差しの選び方へ
順に並べる。1992年、PER評価の正確さが比較企業の選び方で変わると報告された。1999年、財務の数字の有用性が20年で下がってきたと報告された。2002年、どの物差しで倍率を作るかで説明力が激変し(予測利益が最良、売上が最悪)、誰を同業とみなすかでも暗示される価値が変わると示された。2012年、のれんの公正価値が経営者の将来の行動に依存して検証できないことが示された。
二十年で、問いが移った。 「この倍率は割安か」から、「その倍率は、どの物差しで、誰と比べて作られたのか」へ。動かなかったのは、外に流れる早見表のほうである——いまも「この業種はPER何倍が適正」と一覧で配られる。一覧になった倍率は、たいてい、どの物差しで誰と比べたかを書いていない。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「同業と比べて何倍」という一言を、客観的な事実だと読むことである。その一言のなかに、どの数字で倍率を作ったか、誰を同業とみなしたか、いつ測ったかという三つの選択が畳み込まれている。
標本の偏りを断っておく。ここまでの証拠は、米国の、上場企業を対象に採られたものが大半である。倍率の研究も、のれんの研究も、市場で値がつき、財務データが公開されている企業を見ている。非上場の会社、値のつかない会社、途中で消えた会社は、最初から入っていない。 日本の市場評価を対象にした査読研究はごく少ない。
助けになるのは、「割安」「割高」「◯倍」という言葉を見たときに、何を物差しにして、誰と比べているかを書き写すという一手である。物差しと比較対象を一語ずつ書けるだけで、その評価が「事実」なのか「二つの選択の結果」なのかが見えてくる。
最初の一歩は5分。今日目にした「割安」「割高」「◯倍」の評価を一つ選び、何を物差しにして誰と比べているかを書き写す。当たっているかは判定しない。
次の単位は 272「財務予測・シナリオ設計力」——ここまでの数字から未来を描く、という営みが、どの前提に支えられ、その前提がどこまで当たるのか。
- 2002年の Journal of Accounting Research 40(1):135-172 は、どの数字で倍率を作るかで価格の説明力が激変すると示した。予測利益で作った倍率が最良で、価格づけの誤差が価格の15%以内に収まるのは標本の約半分、次が実績利益、キャッシュフローと簿価が同順で中位、売上が最悪である。マルチプルが全部だめなのではなく、選び方で結論が動く分散の大きさが値切りの核である
- 2002年の Journal of Accounting Research 40(2):407-439 は、誰を比較対象(peer)とみなすかで将来の倍率をどれだけ当てられるかが変わると示した。評価の理論からふさわしい倍率を導き、それに近い会社を選ぶ手続きで検証している。割安割高は、物差しの選択と比較対象の選択という二重の選択のあとに決まる
- 1992年の Journal of Accounting Research 30(1):94-108 は、PER評価の正確さが比較企業の選び方で変わり、産業を3桁分類でくくる素朴なやり方が他の手続きと同じくらい効くこと、成長を考えに入れると精度が上がることを報告した。物差しそのものは客観的に見えるが、どの物差しを手に取るかは客観ではない
- 2012年の Review of Accounting Studies 17(4):749-780 は、のれん減損の会計が経営者に公正価値を見積らせて判断させる仕組みを検証し、要旨で、のれんの現在の公正価値は経営者の将来の行動に一部依存するため検証できない、と述べた。同じ要旨は、証拠は経営者が私的情報を伝えているという仮説を裏づけないとも述べる
- のれんや無形の会計は、事実として経営者の裁量に委ねられた部分を含み、帳簿の無形の額を測られた真実として鵜呑みにはできない。国際的な会計基準も、何を無形としてどの時点でどう測るかを定めてはいるが、その多くは見積りに依存する。基準はどう測ると定めているかを教えるのであって、いくらかを保証するのではない
- 1999年の Journal of Accounting Research 37(2):353-385 は、利益・キャッシュフロー・簿価といった財務の数字の投資家にとっての有用性が過去20年で下がってきたと報告した。背景にあるとされるのが無形の増加で、帳簿に載りにくいものが値段の中心になるほど、帳簿の数字と値段のあいだの距離が開く
- 二十年で問いが移った。この倍率は割安か、から、その倍率はどの物差しで誰と比べて作られたのか、へ。同業と比べて何倍という一言には、どの数字で倍率を作ったか・誰を同業とみなしたか・いつ測ったかという三つの選択が畳み込まれている。この単位は特定の会社のマルチプルや適正株価を一切算定しない
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| PERやEV/EBITDAといったマルチプルを見れば、その会社が割安か割高かわかる | 2002年の Journal of Accounting Research 40(1):135-172 は、どの数字で倍率を作るかで価格の説明力が激変することを示した。予測利益で作った倍率は価格をよく説明し(誤差が価格の15%以内に収まるのは標本の約半分)、次が実績利益、キャッシュフローと簿価が同順で中位、売上が最悪である。しかも比較する相手(peer)の選び方でも暗示される価値が変わる。同じ会社でも、選ぶ物差しと比べる相手を変えれば、割安にも割高にもなる。マルチプルが全部だめなのではなく、選び方で結論が動く分散の大きさが、値切りの核である。この単位は特定の会社のマルチプルや適正株価を一切算定しない |
| のれんや無形資産の会計は、市場価値に効くのだから、きちんと測られている | 2012年の Review of Accounting Studies 17(4):749-780 は、のれん減損の会計が経営者に公正価値を見積らせて判断させる仕組みを検証し、要旨で “The current fair value of goodwill is unverifiable because it depends in part on management's future actions…” と述べる。のれんの現在の公正価値は、経営者の将来の行動に一部依存するため検証できない、という意味である。同じ要旨は “Our evidence, while consistent with some agency-theory based predictions, does not confirm the private information hypothesis.”——証拠は、経営者が私的情報を伝えているという仮説を裏づけない、とも述べる。のれん・無形の会計は、事実として裁量に委ねられた部分を含む |
皮肉なのは、マルチプルがいちばん正直に見えるところ——「同業と比べて何倍」という一言——に、いちばん多くの選択が隠れていることである。どの数字で倍率を作るか、誰を同業とみなすか、いつの時点で測るか。三つを選び終えたあとで、割安とも割高とも言える。そして値段を大きく動かすとされる無形の部分は、その会計そのものが、経営者の将来の行動という、まだ起きていないものに依存している。物差しは客観的に見える。ただし、どの物差しを手に取るかは、客観ではない。
Q1. 2002年の Journal of Accounting Research 40(1):135-172 によれば、倍率を作る物差しのうち価格の説明力が最も高いのは【 ① 】で、価格づけの誤差が価格の15%以内に収まるのは標本の約【 ② 】であり、いちばん悪い物差しは【 ③ 】である。穴埋め
Q2. 「割安割高は二重に選ばれている」とは、本文ではどういう意味か。畳み込まれている選択を挙げて説明せよ。一問一答
Q3. 2012年の研究が、のれんの公正価値について示したのはどれか。選択
Q4. 本文が、のれんや無形を扱う会計基準をどう位置づけているか。選択
Q5. 本文の「時間・変化」に沿って、市場評価をめぐる問いの移り変わりを早いほうから並べなさい。(ア)どの物差しで倍率を作るかで説明力が激変すると示される(イ)PER評価の正確さが比較企業の選び方で変わると報告される(ウ)のれんの公正価値が将来の行動に依存して検証できないと示される(エ)財務の数字の有用性が20年で下がってきたと報告される並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。今日、記事・資料・ニュース・SNSなどで目にした「割安」「割高」「PER◯倍」「◯倍が適正」といった評価を1つ選んで書く。次に、その評価が何を物差しにしているか(利益か、予測利益か、売上か、簿価か、キャッシュフローか)を一語で書く。続けて、誰と比べているか(同業か、過去の自分か、市場全体か、記載なしか)を一語で書く。最後に、その物差しか比較対象を変えたら結論が変わりそうか、書かれている範囲で1行だけ書く(分からなければ「判別できない」)。当たっているかどうかは判定しない。自分で特定の会社の適正倍率を計算したりはしない。いま株や会社の値段に触れていない場合は、身近な「割安・割高」——中古品や家賃などの「相場より高い・安い」——を1つ選び、何を物差しに誰と比べているかを同じ形で書き写せば成立する。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
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- Liu J., Nissim D., Thomas J. (2002) 'Equity Valuation Using Multiples', Journal of Accounting Research 40(1):135-172, doi:10.1111/1475-679X.00042 — doi.org
- Bhojraj S., Lee C.M.C. (2002) 'Who Is My Peer? A Valuation-Based Approach to the Selection of Comparable Firms', Journal of Accounting Research 40(2):407-439, doi:10.1111/1475-679X.00054 — doi.org
- Alford A.W. (1992) 'The Effect of the Set of Comparable Firms on the Accuracy of the Price-Earnings Valuation Method', Journal of Accounting Research 30(1):94-108 — www.jstor.org
- Ramanna K., Watts R.L. (2012) 'Evidence on the use of unverifiable estimates in required goodwill impairment', Review of Accounting Studies 17(4):749-780, doi:10.1007/s11142-012-9188-5 — doi.org
- Lev B., Zarowin P. (1999) 'The Boundaries of Financial Reporting and How to Extend Them', Journal of Accounting Research 37(2):353-385, doi:10.2307/2491413 — doi.org
- IASB, IAS 36 Impairment of Assets / IAS 38 Intangible Assets(会計基準の定義。査読誌ではない。2026年8月閲覧) — www.ifrs.org