自己資本の『厚さ』は、安全の証明にも、その反対にもなる
自己資本が厚い会社は安全だ、と言われる。だが原典を開くと、その『厚さ』が良いことなのかは、どの説を採るかで逆を向く。ある説では最適な厚さがあり、別の説では厚さはただ内部資金が余った結果にすぎない。しかも実証では、厚さの多くが会社の決定ではなく、株価の上げ下げで動いていた。
前の単位では、借りたお金——負債の側を扱った。ここでは、自前のお金——純資産の側を扱う。
この単位が扱うのは一点——自己資本は厚いほど安全だ、という言い方が、どこまで確かめられているかである。 増資すべきか、内部留保を貯めるべきか、といった判断はしない。書けるのは、その判断に使われる数字がどう作られ、望ましさの向きが説によってどう変わるかまでである。
純資産という言葉
まず言葉をほどく。純資産(自己資本)は、会社の資産の合計から負債の合計を引いた残りである。資産 − 負債。 株主が出したお金と、これまで稼いで社内にためた利益(内部留保)が主な中身で、借りたものではないので返す必要がない。だから「自己資本が厚い会社は安全だ」と言われる。
ただし、ここで言う純資産は帳簿の上の数字(簿価)である。前の段で見たとおり、帳簿の資産には、中で作った無形(研究開発の蓄積・育てたブランド)が原則載らず、古い時価のまま置かれた資産もある。だから簿価の純資産は、会社の本当の値打ちとは、もともとずれている。 「厚さ」を測っている物差し自体が、実態から少し離れたところにある。
二つの説で、望ましさが逆を向く
「厚いほど安全」という言い方の根っこには、資本構成をめぐる二つの説があって、その二つは自己資本の厚さの望ましさについて逆を向いている。1984年に *The Journal of Finance* 39(3):574-592 へ出た論文が、その二つを正面から対比した。掲載アブストラクトはこう書き出す。“This paper contrasts the ‘static tradeoff’ and ‘pecking order’ theories of capital structure choice by corporations.”——この論文は、企業の資本構成の選択について、「静的トレードオフ」理論と「ペッキングオーダー」理論を対比する。
一つめの静的トレードオフ理論は、借金の節税の得と、倒産の費用とを釣り合わせたところに最適な自己資本の割合があるとする。この説では、自己資本の厚さには「ちょうどよい点」があり、厚すぎても薄すぎてもよくない。二つめのペッキングオーダー理論は、まるで違う。同じアブストラクトの一文——“In the pecking order theory, firms prefer internal to external funds, and debt to equity if external funds are needed.”——ペッキングオーダー理論では、企業は外部資金より内部資金を好み、外部資金が必要なときは株式より負債を好む。 この説では、会社は最適な割合を目指したりしない。手元の内部資金をまず使い、足りなければ借り、それでも足りないときにやむなく増資する。その結果として自己資本が厚くなることはあっても、それは目標ではなく、内部資金が余った履歴にすぎない。
同じ「自己資本が厚い」という状態が、片方の説では「最適に近い良い状態」、もう片方の説では「たまたま内部資金が余っただけの結果」になる。 厚さそのものは、安全の証明にも、その反対にもなる。
なぜ増資は最後なのか
ペッキングオーダーで増資が最後に回されるのには、はっきりした理由がある。同じ1984年、*Journal of Financial Economics* 13(2):187-221 へ出た論文が、それを情報の偏りから説明した。掲載記述の一文はこうである。“firms may refuse to issue stock, and therefore may pass up valuable investment opportunities.”——企業は株式の発行を拒み、その結果、価値ある投資機会を見送ることがある。
理屈はこうである。会社の中身は、外の投資家より、中にいる人のほうがよく知っている。その状態で会社が新しく株を売ろうとすると、外からは「中の人が、いまの株価を高すぎると思って売りに来たのではないか」と見える。すると増資は株価を押し下げるシグナルになり、会社は割安でしか株を売れない。だから会社は増資をためらい、ときには有望な投資まで見送る。 「自己資本を増資で厚くする」ことには、この見えないコストがついて回る。厚くすること自体が、いつでも良い手だとは限らない。
厚さは、意図か、それとも結果か
もう一つ、根本を揺らす報告がある。自己資本の厚さ(裏返せば負債の割合)は、会社が意図して設計したものなのか、それとも別の力で受動的に動かされた結果なのか、という問いである。
2004年に *Journal of Political Economy* 112(1):106-131 へ出た研究は、会社が株価の変動を打ち消すように資本構成を積極的に調整してはいないこと、負債の割合の動きのかなりの部分(1〜5年で約4割)が、実は株価の上げ下げそのものによって説明されてしまうことを示した。株価が上がれば自己資本の割合は自然に厚くなり、下がれば薄くなる。会社が何かを決めなくても、比率は市場に押されて動く。
2002年に *The Journal of Finance* 57(1):1-32 へ出た研究は、別の角度から同じところに触れる。会社は自社の市場価値が高いときに株を発行し、低いときに買い戻す傾向があり、その効果が長く残るため、いまの資本構成は、過去に市場のタイミングを計って増資してきたことの積み重ねだと論じた。
二つを合わせると、こうなる。 目の前の「厚い自己資本」は、安全のために設計された緩衝材かもしれないが、過去に株価が高かった時期に増資できた履歴の堆積かもしれず、直近の株価が上がったせいで厚く見えているだけかもしれない。 同じ厚さが、意図の産物にも、履歴の産物にも読める。
税を入れると、厚さは不利にもなる
向きをもう一段ひっくり返しておく。前の単位で見た1963年の *The American Economic Review* 53(3):433-443 の訂正は、税引き後では借金の利息が損金になり、負債を増やすほど企業価値が上がる方向になると示した。この向きから見ると、自己資本を厚くして負債を減らすことは、節税の機会を捨てているとも読める。 「厚い自己資本=安全」と「厚い自己資本=節税の取りこぼし」は、同じ厚さの表と裏である。安全と効率は、同じ方向を向かない。
時間・変化:厚さの意味は、説と時代で入れ替わってきた
順に置く。1958年、摩擦のない世界では資本構成は企業価値に無関係とされた。1963年、税を入れると負債が有利になり、厚い自己資本は節税の取りこぼしにもなった。1984年、静的トレードオフ(最適な厚さがある)とペッキングオーダー(厚さは内部資金が余った結果)が正面から対比され、増資には情報の偏りによる見えないコストがあると示された。1999年、*Journal of Financial Economics* 51(2):219-244 の実証は、基本のペッキングオーダー模型のほうが、最適比率へ調整するトレードオフ模型より、時系列の説明力がずっと大きいと報告した。2002年から2004年、いまの資本構成は市場のタイミングの累積であり、比率は株価に受動的に押されて動くことが示された。
半世紀で「自己資本は厚いほど安全」は、一つの説の主張にすぎないことが見えてきた。 別の説では厚さは目標ですらなく、実証では厚さの多くが会社の意図の外——市場と株価——で決まっていた。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「厚さ」が一つの数字で言えてしまうことである。自己資本比率は割り算一つで出るので、いかにも安全の度合いを測ったように見える。だがその分子(純資産)は簿価で実態とずれ、その大きさの多くは会社の意図の外で決まっている。一つの数字は、それがどう作られ、何によって動かされたかを隠す。
標本の偏りを断っておく。ここで挙げた実証は、米国の上場企業が大半で、株式市場で株価が日々つく会社を前提にしている。株価のつかない非上場企業や中小企業の自己資本が、同じように市場に押されて動くとは限らない。日本の中小企業の純資産を同じ枠組みで追った査読研究はごく少ない。そして、自己資本を保てずに消えた会社は標本から抜けている。
助けになるのは、自社(または見ている会社)の純資産の中身を、出どころ別に書き分けるという一手である。株主が出したお金か、稼いでためた利益(内部留保)か、資産の評価替えで乗った差額か。同じ「厚さ」でも、出どころが違えば意味が違う。 これは決裁権を必要としない、ただの観察である。
最初の一歩は10分。純資産の欄を一つ開き、その中身がどんな名前の項目に分かれているかを、資料の言葉のまま書き写す。金額の大小は測らない。分からない項目は「不明」と書く。
次の単位は 264「財務体質・バランスシート健全性」——一枚の貸借対照表から、会社の健全さは測れるのか。
- 純資産(自己資本)は資産から負債を引いた残りで、返す必要がないため『厚いほど安全』と言われる。だがそれは帳簿上の数字(簿価)で、中で作った無形が原則載らず古い時価も混じるため、厚さを測る物差し自体が実態とずれている。
- 1984年の *The Journal of Finance* 39(3):574-592 で Myers は、静的トレードオフ理論とペッキングオーダー理論を対比した。前者は節税と倒産費用を釣り合わせた最適な自己資本割合があるとし、後者は企業が内部資金→負債→株式の順に使い最適割合を目指さないとする。同じ『厚い自己資本』が、一方では良い状態、他方では内部資金が余った履歴になる。
- 1984年の *Journal of Financial Economics* 13(2):187-221 で Myers & Majluf は、情報の偏りゆえ増資は割安シグナルになり、企業は株式発行を拒んで価値ある投資機会を見送ることがあると示した(“firms may refuse to issue stock … pass up valuable investment opportunities”)。自己資本を増資で厚くすることには見えないコストがある。
- 2004年の *Journal of Political Economy* 112(1):106-131 の Welch は、企業が株価変動を打ち消すよう資本構成を調整せず、負債割合の動きのかなりの部分(1〜5年で約4割)が株価の上げ下げで説明されると示した。株価が上がれば自己資本の割合は何もしなくても厚くなる。
- 2002年の *The Journal of Finance* 57(1):1-32 の Baker & Wurgler は、企業が市場価値の高いときに株を発行し低いときに買い戻すため、いまの資本構成は過去の市場タイミングの累積だと論じた。厚い自己資本は最適設計ではなく履歴の堆積かもしれない。
- 前段の1963年 *The American Economic Review* 53(3):433-443 の税制下の視点では、負債の利息が損金になるため、自己資本を厚くして負債を減らすことは節税の機会を捨てているとも読める。『厚い=安全』と『厚い=節税の取りこぼし』は同じ厚さの表と裏で、安全と効率は同じ方向を向かない。
- 1999年の *Journal of Financial Economics* 51(2):219-244 の Shyam-Sunder & Myers は、基本のペッキングオーダー模型のほうが、最適比率へ調整するトレードオフ模型より時系列の説明力がずっと大きいと報告した。厚さを最適点へ近づける、という描き方は実証で支持が弱い。
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 自己資本は厚いほど安全なので、純資産比率が高い会社ほど財務的に強いと判断してよい | 『厚いほど安全』は資本構成の一つの説(静的トレードオフ)の主張にすぎない。1984年の Myers が対比したペッキングオーダー理論では、厚さは目標ですらなく、内部資金が余った履歴にすぎない。さらに1963年の税制下の視点では、厚い自己資本は節税の機会を捨てているとも読める。安全と効率は同じ方向を向かない。 |
| 自己資本を増やすのは常に良いことだから、増資して純資産を厚くすればよい | 1984年の Myers & Majluf は、情報の偏りゆえ増資が割安シグナルになり、企業は株式発行を拒んで価値ある投資機会を見送ることがあると示した。だからペッキングオーダーでは増資は最後に回る。増資で自己資本を厚くすることには見えないコストがつき、いつでも良い手とは限らない。 |
| 厚い自己資本は、会社が安全のために計画的に積み上げた緩衝材だ | 2004年の Welch は負債割合の動きのかなりの部分(1〜5年で約4割)が株価の上げ下げで説明されると示し、2002年の Baker & Wurgler はいまの資本構成が過去の市場タイミングの累積だと論じた。目の前の厚さは、意図して積んだ緩衝材かもしれないし、株価が高かった時期に増資できた履歴の堆積や、直近の株価上昇で厚く見えているだけかもしれない。 |
皮肉なのは、いちばん安全に見える『厚い自己資本』が、いちばん受け身に作られていることがある点である。会社が身を削って積み上げた緩衝材のように見えて、原典を開くと、その厚みの多くは、株価が上がった時期にたまたま増資できた履歴と、直近の株価上昇で膨らんだ見かけでできていた。厚さは、安全のために選ばれたのではなく、市場に選ばれた履歴として残っている。いちばん自前に見えるものが、いちばん外に決められている——自己資本という名前は、そこだけ少し楽観的である。
Q1. 『自己資本は厚いほど安全』という言い方が、資本構成の二つの説でどう食い違うかを説明せよ。一問一答
Q2. 1984年の Myers & Majluf によれば、中の人が外の投資家より会社をよく知る状況では、増資は【 ① 】と見られて割安に評価されるため、企業は株式の発行を拒み、ときに価値ある【 ② 】を見送ることがある。だから自己資本を増資で厚くすることには【 ③ 】コストがつく。穴埋め
Q3. 目の前の『厚い自己資本』が、会社の意図の外で決まった結果でもありうることを、2004年の Welch と2002年の Baker & Wurgler の報告に触れて説明せよ。一問一答
Q4. 1999年の Shyam-Sunder & Myers が、静的トレードオフ模型とペッキングオーダー模型を時系列で比べて報告したことは何か。選択
Q5. 『厚い自己資本=安全』と『厚い自己資本=節税の取りこぼし』が同じ厚さの表裏である、と本文が言うのはなぜか。選択
今日のうちに、自分が見ている会社(または身近な組織・家計)の純資産にあたる欄を一つ開く。決算書の純資産の部でも、家計なら『借金を引いた後の自前の資産』でよい。紙かメモアプリに、その中身がどんな名前の項目に分かれているかを、資料の言葉のまま書き写す——株主が出したお金(資本金など)、稼いでためた利益(利益剰余金・内部留保)、資産の評価替えで乗った差額、といった具合に。金額の大小は測らない。厚い・薄いの判定もしない。分からない項目は『不明』と書く。最後に、書き写した項目のうち『稼いでためたもの』と『外から入れたもの』と『評価で乗ったもの』が、それぞれいくつあったかを数える。いま会社に属していない場合や決算書が手元にない場合は、自分の家計で『自前の資産』の内訳(コツコツ貯めたぶん・贈与や借入で入ったぶん・値上がりで増えたぶん)を書き分ければよい。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Myers S.C. (1984) 'The Capital Structure Puzzle', The Journal of Finance 39(3):574-592 — doi.org
- Myers S.C., Majluf N.S. (1984) 'Corporate financing and investment decisions when firms have information that investors do not have', Journal of Financial Economics 13(2):187-221 — doi.org
- Welch I. (2004) 'Capital Structure and Stock Returns', Journal of Political Economy 112(1):106-131 — doi.org
- Baker M., Wurgler J. (2002) 'Market Timing and Capital Structure', The Journal of Finance 57(1):1-32 — doi.org
- Shyam-Sunder L., Myers S.C. (1999) 'Testing static tradeoff against pecking order models of capital structure', Journal of Financial Economics 51(2):219-244 — doi.org
- Modigliani F., Miller M.H. (1963) 'Corporate Income Taxes and the Cost of Capital: A Correction', The American Economic Review 53(3):433-443 — www.jstor.org