辞めたい気持ちとは、はっきり結びついた。実際に辞めることとは、結びつかなかった
入社時に聞いた話と実際が違うと、辞めたい気持ちが3倍になる——そう書かれた資料に添えられているのは、1997年のある論文である。その論文は、理論を載せる誌に出た「違反の感覚がどう生まれるか」のモデルであって、3倍という数字は、辿れた原典には無い。数字を持っているのは10年後のメタ分析で、そこでは実際に辞めることとの関連はほぼゼロだった。
前の単位では、「うまくいっている」という言葉を支える数字が、何を、いつ測ったものかを見た。ここでは、入るときに交わされた言葉になっていない取り決めの話に移る。聞いた話と実際が違ったとき、何が起きると測られているのか。
はじめに一つ断っておく。ここでいう「契約」は、法律上の契約のことではない。 相手が自分に何を負っているかについての本人の側の思い込みを指す研究上の言葉である。この記事は雇用の法制度の解釈には踏み込まない。
数値の帰属先が、モデルの論文である
いちばんよく引かれるのはこの一行である。心理的契約の違反は、離職の意図を3倍に高める。 添えられているのは1997年の論文である。
その論文の題名には、「〜のモデル」という語が入っている。掲載誌は、学会自身がこう説明している媒体である。
> “The mission of Academy of Management Review (AMR) is to publish theoretical insights that advance our understanding of management and organizations.”(Academy of Management Review の使命は、経営と組織についての我々の理解を前進させる理論的洞察を公刊することである)
> “Submissions to AMR must extend theory in ways that develop testable knowledge-based claims.”(AMR への投稿は、検証可能な知識に基づく主張を発展させる仕方で理論を拡張しなければならない)
同じページに「実証データを載せない」と明示する文は無い。だから「この誌は実証を一切載せない」とは書けない。 書けるのは、使命が理論的洞察の公刊であることと、この論文の題名がモデルの提案であることである。
正直に書いておく。この論文の本文と抄録には、15の経路をたどって到達できなかった。 出版社の抄録ページ、書誌データベース2種、文献のアーカイブ、大学のPDF検索——いずれも取れない。ある論文情報のサービスは、抄録の欄に出版社が抄録を削除した旨の注記を返した。したがって「原典を読んで、3倍という数字が無いことを確かめた」とは書けない。
書けるのはここまでである。この論文には抄録が登録されておらず、書誌データベースのどこにも標本・データ・統計の情報が無い。 そして、3年後に同じ著者らが、この1997年のモデルを検証する実証研究を別の誌に出している。 1997年の論文にデータがあったなら、その必要は無い。
実際の数字は、10年後のメタ分析にある
2007年に *Personnel Psychology* 60(3):647-680 へ出たメタ分析が、この話題の効果量を持つ。要旨の2文目が核である。
> “Breach was related to all outcomes except actual turnover.”(違反は、実際の離職を除くすべての帰結と関連していた)
標本はこうである。
> “a total of 51 studies were included (including 12 dissertations, book chapters, conference papers, or working papers)”(合計51の研究が組み入れられた(12件の学位論文・書籍の章・学会発表論文・作業論文を含む))
原典の表を、全文がホストされたページで2回取得して確認した(出版社の版ではない)。離職の意図との修正済み相関は ρ = .42、22件・6,268人、95%信頼区間 .36〜.49。実際の離職とは ρ = .06、5件・730人、95%信頼区間 −.12〜.23 である。
本文にはこう書かれている。
> “For actual turnover, however, the estimated true correlation was close to zero, and its confidence interval included zero, which suggests that breach is not associated with actual turnover.”(しかし実際の離職については、推定された真相関はゼロに近く、その信頼区間はゼロを含んでいた。これは違反が実際の離職と関連していないことを示唆する)
「3倍」の代わりに書ける原典の数字は、これである。辞めたい気持ちとは、はっきり結びつく。実際に辞めることとは、結びつかない。
ただしこれを「違反は離職を招かない」と読み替えてはならない。 k=5・N=730 という薄さのもとで信頼区間がゼロを跨いだ、というだけである。「関連が無いと示された」ではなく、「関連があるとは言えなかった」である。
気持ちは22本、行動は5本でしか測られていない
同じ表の8つの帰結を並べると、もう一つ見えるものがある。
違反の感覚 .52(11件)、不信 .65(9件)、職務満足 −.54(28件・14,252人)、組織への継続的関与 −.38(20件・12,523人)、離職の意図 .42(22件・6,268人)、組織市民行動 −.14(21件)、役割内の業績 −.24(16件)——そして実際の離職 .06(5件・730人)。
態度と気持ちの側には2万人規模の標本が並び、実際に辞めたかどうかは730人しか無い。 質問紙は配れば返ってくる。誰がいつ辞めたかは、辞めるまで待たなければならない。測りやすいほうが、繰り返し測られる。
54.8%は、経営大学院の修了者128人の自己申告である
もう一つよく引かれる数字がある。回答者の過半数(54.8%)が、雇用主に契約を破られたと報告した。 これは実在する。1994年の *Journal of Organizational Behavior* 15(3):245-259 の要旨にこうある。
> “The occurrence and impact of psychological contract violations were studied among graduate management alumni (N = 128) who were surveyed twice, once at graduation (immediately following recruitment) and then two years later.”(心理的契約の違反の発生と影響が、経営大学院の修了生(N = 128)を対象に、修了時(採用の直後)と2年後の2回にわたって調査された)
> “Psychological contracts ... were reported by a majority of respondents (54.8 per cent) as having been violated by their employers.”(心理的契約は、回答者の過半数(54.8%)によって、雇用主に破られたと報告された)
128人の、経営大学院の修了生の自己申告である。 労働者一般の比率ではない。数字そのものは正しい。母集団が違う。
違反の知覚を予測したのは、入社の前後の接触だった
1997年のモデルを検証したのが、2000年の *Journal of Organizational Behavior* 21(5):525-546 である。
> “Data were obtained from 147 managers just prior to their beginning of new job (time 1) and 18 months later (time 2).”(データは、147人の管理職から、新しい職務を始める直前(時点1)と18か月後(時点2)に得られた)
所見のなかに、この棚にとって重要なものがある。
> “...perceived contract breach at time 2 was more likely when organizational performance and self-reported employee performance were low, the employee had not experienced a formal socialization process, the employee had little interaction with organizational agents prior to hire...”(時点2における契約違反の知覚は、組織の業績と自己申告の業績が低いとき、その従業員が正式な社会化の過程を経験していなかったとき、採用前に組織の人間との接触が少なかったとき、より起きやすかった)
「正式な受け入れの過程を経験していないこと」と「入社前に組織の人間との接触が少なかったこと」が、違反の知覚を予測している。 ここで測られている「聞いた話と実際の差」は、入る前と入った直後に何が起きたかと地続きである。 なお、この論文に違反の報告率の百分率は載っていない。 標本は147人、追跡は18か月である。
年齢の効きは、一方向ではなかった
2008年の *Journal of Vocational Behavior* 72(1):143-158 は、年齢が調整変数になるかを60研究で調べている。よく紹介されるのは「若い人ほど違反に敏感」という向きだが、原典はこうである。
> “Our results supported both hypotheses for the outcomes trust and organizational commitment. However, for job satisfaction the moderating influence of age was in the unexpected direction.”(我々の結果は、信頼と組織への継続的関与という帰結については両方の仮説を支持した。しかし職務満足については、年齢の調整的な影響は予想外の向きだった)
信頼と継続的関与では若い人のほうが敏感だったが、職務満足では逆だった。 k = 60。総標本の規模は取れなかった。「若い人ほど傷つく」と一行で書くと、3つのうち1つが落ちる。
出発点の1989年は、記述である
この言葉の出発点は1989年の論文である。要旨の最後の一文はこうである。
> “The development, maintenance, and violation of psychological and implied contracts are described along with their organizational implications.”(心理的契約と暗黙の契約の形成、維持、違反が、その組織上の含意とともに記述される)
「記述される」である。 標本も方法も出てこない。概念の提示から始まり、実証は5年後、モデルの提案は8年後、その検証は11年後、効果量の統合は18年後に来た。 引く側は、たいてい一番古い書誌を出典として置く。
時間・変化:1989年から2008年へ、何が測られるようになったか
順に置く。1989年、心理的契約と暗黙の契約が概念として記述される。標本は無い。1994年、修了生128人を2時点で追った実証が出て、54.8%という報告率が生まれる。1997年、違反の感覚がどう生まれるかのモデルが、理論を載せる誌に出る。数値は無い。2000年、147人を18か月追った縦断研究がそのモデルを検証し、正式な受け入れの過程と入社前の接触が予測因になることを示す。2007年、51研究のメタ分析が、離職の意図 ρ=.42 に対し実際の離職 ρ=.06 で信頼区間がゼロを跨ぐことを示す。2008年、60研究のメタ分析が、年齢の効きが帰結によって向きを変えることを示す。
19年で増えたのは、効果の確からしさではなく、「意図」と「実際」を分けて数える習慣のほうである。 そして分けたとたん、片方だけが薄いことが見えた。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、取り決めの多くがそもそも書かれていないことである。書かれていないものは、双方が別々に覚えている。そして片方だけが、それを破られたと感じる。 研究の側でも、測られているのは「破られたと本人が思ったかどうか」であって、実際に何が約束されたかではない。
標本の偏りを断っておく。ここで引いた実証の標本は、北米の経営大学院の修了生128人、同じく修了者147人、そして51研究・60研究のメタ分析である。日本の雇用における心理的契約を対象にした査読研究には行き着けなかった。 そして、2時点の調査に2回とも答えられた人だけが標本に残る。早くに去った人は、2回目の調査票を受け取らない。
助けになるのは、入るときに「聞いた話」と、その後の「実際」の差を3つだけ書き出してみるという一手である。そのうえで、それぞれが書面にあったのか、口頭だったのか、誰も言っていないのに自分がそう思っていたのかを分ける。効き目は差の大きさではなく、3つのうち何個が最後の欄に入るかがはっきりすることのほうにある。
もうひとつは、数字を見たときの順番を決めておくことである。まず「それは意図か、行動か」、次に「何件・何人で測られたか」、最後に「信頼区間はゼロを跨いでいないか」。
最初の一歩は10分。入社時に聞いた話と実際の差を3つ書き出し、それぞれを明文だったか暗黙だったかで分ける。 いま働いていなくてよい。過去の入社でも、学校でも、引き受けた仕事1件でも足りる。
ここまでで、入って、役割に就き、続いていく段が終わる。次の単位からは、その先で人がどう変わっていくかが測られる段に入る。同じ人の同じ仕事が、時間とともに別のものになっていくときに、何がどう数えられているのかを見る。
- 「心理的契約の違反は離職意図を3倍に高める」に添えられる1997年の論文は、題名に「〜のモデル」を含み、理論的洞察の公刊を使命とする誌に出ている。ただし本文・抄録には15の経路をたどって到達できておらず、「原典を読んで3倍が無いと確かめた」とは書けない。
- 書けるのは間接証拠までである。この論文には抄録が登録されておらず、書誌データベースのどこにも標本・データ・統計の情報が無く、3年後に同じ著者らがこのモデルを検証する実証研究を別の誌に出している。
- 実際の効果量は2007年の *Personnel Psychology* 60(3):647-680(51研究)にある。離職の意図とは ρ=.42(22件・6,268人、95%信頼区間 .36〜.49)、実際の離職とは ρ=.06(5件・730人、同 −.12〜.23)で、要旨は「違反は、実際の離職を除くすべての帰結と関連していた」と書く。
- ただし ρ=.06 を「違反は離職を招かない」と読み替えてはならない。k=5・N=730 という薄さのもとで信頼区間がゼロを跨いだ、というだけである。「関連が無い」ではなく「関連があるとは言えなかった」である。
- 同じ表では、態度や気持ちの側が2万人規模で測られているのに対し、実際に辞めたかどうかは730人しか無い。測りやすいほうが、繰り返し測られている。
- 「54.8%が違反された」は実在するが、経営大学院の修了生128人を修了時と2年後の2回調査した結果の自己申告である。労働者一般の比率ではない。
- 1997年のモデルを検証した2000年の縦断研究(147人・18か月)は、違反の知覚が起きやすい条件として「正式な社会化の過程を経験していなかったこと」「採用前に組織の人間との接触が少なかったこと」を挙げる。なお2008年の60研究のメタ分析では、年齢の調整効果は職務満足について予想外の向きだった。
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 心理的契約の違反が離職意図を3倍にすることは、1997年の論文で示されている | その論文は題名に「〜のモデル」を含み、理論的洞察の公刊を使命とする誌に出ている。3倍という数字は、2007年のメタ分析にも1994年の実証にも無い。ただし1997年の本文には15の経路をたどっても到達できておらず、書けるのは間接証拠までである。 |
| 違反されたと感じた人は、実際に辞めていく。それはメタ分析で確かめられている | 51研究のメタ分析では、離職の意図との相関は ρ=.42 だが、実際の離職とは ρ=.06 で、95%信頼区間は −.12 から .23 とゼロを跨ぐ。ただし実際の離職は5件・730人しか無く、「関連が無い」ではなく「関連があるとは言えなかった」である。 |
| 働く人の半分以上が、雇用主に約束を破られた経験を持つ | 54.8%という数字は実在するが、経営大学院の修了生128人を、修了時と2年後の2回調査した自己申告である。労働者一般の比率ではない。数字が間違っているのではなく、母集団が違う。 |
3倍という数字の便利なところは、誰も出どころを持っていないぶん、誰にも訂正されない点である。原典にあたると、辞めたい気持ちのほうは22本・6千人あまりで丁寧に測られていて、実際に辞めたかどうかは5本・730人しか無い。気持ちは、質問紙を配れば今日わかる。辞めたかどうかは、辞めるまで待たなければならない。待てる人が少ないので、待たなくてよいほうの数字が積み上がる。積み上がった山を指して、私たちは「よく研究されている」と言う。
Q1. 2007年のメタ分析(【 ① 】研究)では、心理的契約の違反と離職の意図の修正済み相関は【 ② 】(22件・6,268人)だが、実際の離職との修正済み相関は【 ③ 】(5件・730人)で、95%信頼区間はゼロを跨ぐ。穴埋め
Q2. 「54.8%が雇用主に契約を破られたと報告した」という数字の母集団は、【 ① 】の修了生【 ② 】人であり、修了時と【 ③ 】年後の2回にわたって調査されている。穴埋め
Q3. 1997年の論文について、この記事が「書ける」としている範囲はどれか。選択
Q4. 実際の離職との相関 ρ=.06 の読み方として、正しいものはどれか。選択
Q5. 2000年の縦断研究(147人・18か月)が、違反の知覚が起きやすい条件として挙げているものはどれか。選択
紙かメモアプリに、自分がいまの場所(または直近の場所)に入るときに「こうなると聞いていた・そう思っていた」ことと、その後の「実際」の差を3つだけ書き出す。1件につき2行——聞いていた内容を20字程度、実際を20字程度。良い悪いの評価は書かない。誰が言ったかも書かない。次に、3件それぞれの横に、(あ)書面にあった(い)口頭で言われた(う)誰も言っていないが自分がそう思っていた、のどれか1つを記す。判断がつかないものは「不明」でよい。最後に、(う)と「不明」が何件だったかを1つの数として書く。★他人の言動を評価しない。相手を特定できる書き方をしない。組織の記録から証拠を探しに行かない。自分の記憶の中だけで完結させる。いま働いていない場合、入社の経験がない場合は、学校・講座・地域の活動に入ったとき、あるいは引き受けた仕事1件について同じ3件を書けばよい。公開されている求人票を1件読み、書かれていることと書かれていないことを3つずつ挙げる形でも足りる。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
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- Morrison E.W., Robinson S.L. (1997) 'When Employees Feel Betrayed: A Model of How Psychological Contract Violation Develops', Academy of Management Review 22(1):226-256 — doi.org
- Zhao H., Wayne S.J., Glibkowski B.C., Bravo J. (2007) 'The impact of psychological contract breach on work-related outcomes: A meta-analysis', Personnel Psychology 60(3):647-680 — doi.org
- Robinson S.L., Rousseau D.M. (1994) 'Violating the psychological contract: Not the exception but the norm', Journal of Organizational Behavior 15(3):245-259 — doi.org
- Robinson S.L., Morrison E.W. (2000) 'The development of psychological contract breach and violation: A longitudinal study', Journal of Organizational Behavior 21(5):525-546 — doi.org
- Rousseau D.M. (1989) 'Psychological and implied contracts in organizations', Employee Responsibilities and Rights Journal 2(2):121-139 — doi.org
- Bal P.M., De Lange A.H., Jansen P.G.W., Van der Velde M.E.G. (2008) 'Psychological contract breach and job attitudes: A meta-analysis of age as a moderator', Journal of Vocational Behavior 72(1):143-158 — doi.org
- Academy of Management (2026年8月閲覧) 'Academy of Management Review' 誌の使命の記述 — aom.org