「研修でデータ好きになる」——だが文化は講座でなく使う経験に宿る。小さく使う場を日々に作る
研修でデータ好きになる、と教わる。皮肉なことに、この言葉ほどデータ文化を遠ざけるものはない。立派な講座を一度開いた——その一言で、私たちは安心し、文化が育ったつもりになる。だが、そもそもデータリテラシーが何を指すのかは、まだ研究の世界でも定まっておらず、研修の効果を測った証拠も薄い。それでも一つ確からしいのは、データを使う力は、実際に使ってよい経験をするなかに、少しずつ積もっていくということだ。
前の単位では、データのプライバシー——匿名化の限界を扱った。ここでは、そのデータを実際に使う「文化」——現場をどうデータ好きにするか、を扱う。
「研修でデータ好きになる」——これが、この単位が向き合う俗説だ。データの使い方を教える講座を開けば、人はデータを好きになり、数字で考えるようになる、という発想である。学ぶ機会を用意すること自体は、大切だ。だが、この単位で見るのは、その先だ。データを使う文化は、一度の研修で植えつけられるものではない。文化は、道具を実際に使う日々の経験のなかに、少しずつ宿っていく。 まず断っておく。ここで扱うのは、人一般の研修や教育(それはF10の持ち場だ)ではなく、データに固有のリテラシーと文化——数字とどう付き合う習慣を、どう育てるか——の話である。そして、数字やデータで人を管理・監視する仕組みを作れ、という話でもない。
「データリテラシー」は、まだ形の定まらない若い言葉
まず、意外な事実から。「データリテラシー(データを読み・使う力)」という言葉は、実のところ、何を指すのかの合意がまだ固まっていない、若い領域だ。二〇一六年、Wolff らが *The Journal of Community Informatics* 12(3) で、データリテラシーの理解を作ろうと試み、その定義がなお形成の途上にあることを示した。同じ年、Frank らも同誌 12(3) で、「データリテラシーとは何か、どうすれば身につくのか」がなお開かれた問いであることを論じた。二〇一七年、Koltay が *Journal of Librarianship and Information Science* 49(1):3-14 で、この言葉が文脈によって多くの意味を持つ、多義的なものであることを整理した。つまり、「データ好きにする研修」と言っても、そもそも何を育てるのかが、まだ広くは定まっていない。 目標が定まらないものを、講座一つで身につけさせられる、と考えるのは、そもそも無理がある。ゴールの見えない道を、地図なしで走らせるようなものだ。 ここに、この単位の「証拠の読み違え方」がある——研修さえ開けばデータ好きになると思い込み、何を育てるのかが未確立で、研修の効果を測った証拠も薄い、という土台の弱さを見落とす。
正規の学習機会は限られ、研修効果の実証は薄い
では、「研修すればデータを使えるようになる」を裏づける証拠は、どれくらいあるのか。実のところ、薄い。二〇一三年、Mandinach と Gummer が *Educational Researcher* 42(1):30-37 で、教育の現場にデータリテラシーを根づかせる道筋を論じ、そもそも正規の学習機会そのものが限られていることを指摘した。教える側にデータリテラシーが要るのに、それを正式に学ぶ場が乏しい、という現実である。ここで大事なのは、この分野の研究の多くが、リテラシーの「定義」や「枠組み」や「必要な能力」を論じたものであって、「研修をしたら、その後どれだけデータを使うようになったか」という効果を測った実証は、まだ乏しい、ということだ。「研修すれば好きになる・使えるようになる」を裏づける標本は、思うほど揃っていない。 だから、研修を開くこと自体を、成果と取り違えてはならない。講座を開いた、受講者が何人いた——それは、入り口の数であって、文化が育った証ではない。効果の薄さを、薄さのまま、正直に見ておく必要がある。ここで誤解しないでほしい。これは「研修に意味がない」という話ではない。研修は、はじめの一歩のきっかけにはなる。ただ、「研修さえすれば文化ができる」という思い込みが、危ういのだ。効果が確かめられていないものに、多くを賭けてはいけない。むしろ、研修に大きな費用と時間をかけるほど、「これだけやったのだから、あとは現場が使うはずだ」という期待だけが膨らみ、肝心の日々の使う場が置き去りにされる——そういう本末転倒が起きやすい。証拠が薄いのだから、賭け金は小さく、そのぶん日々の実践に回すのが、賢い配り方である。
データ文化は、組織の「能力・実践」として育つ
では、データを使う力は、どこに宿るのか。研修という一度きりの出来事ではなく、組織の日々の実践のなかに、である。二〇一六年、Gupta と George が *Information & Management* 53(8):1049-1064 で、ビッグデータ分析の能力がどう育つかを調べ、それが単発の教育ではなく、資源・人・実践が組み合わさった組織の「能力」として、時間をかけて形づくられることを示した。データの道具、それを使う人、そして実際にデータで意思決定する日々のやり方——これらが噛み合って、はじめてデータを使う力は根づく。分析の力は、頭に知識を注ぎ込めば宿るのではなく、実際に使う場のなかで、組織全体の習慣として育っていく。 たとえば、毎週の会議で必ず一つの数字を見て話す、という小さな実践を続けるほうが、立派な研修を一度開くよりも、ずっと確かに文化を育てる。文化とは、講座で配られるものではなく、日々の動きのなかに積もっていくものだ。そして、この「実践のなかで育つ」という見方は、小さな商いにこそ都合がよい。大企業のように立派な研修体制を組む余裕がなくても、毎日の仕事のなかに、数字を見る小さな場を一つ挟むことなら、誰にでもできる。むしろ、人数の少ない商いのほうが、一人が数字を見て一言つぶやくだけで、その習慣は店全体にすぐ伝わる。文化を育てるのに要るのは、大きな予算ではなく、小さくても続く実践なのだ。
使う経験が、次に使う気持ちを生む
そして、文化が「使うこと」に宿る仕組みを、もう一歩たどろう。二〇一四年、Kwon らが *International Journal of Information Management* 34(3):387-394 で、データの品質と、データを使った経験と、次にデータ分析を取り入れたいという意向の関係を調べ、データを実際に使ってよい経験をすることが、次にまた使おうという気持ちを生むことを示した。つまり、好きになるから使うのではなく、使ってみて役に立つから、好きになる。順番が逆なのだ。「まず好きにさせて、それから使わせる」のではなく、「まず小さく使う場を作り、役に立つ経験を積ませて、結果として好きになってもらう」。 これが、文化を育てる本当の順序である。研修は、この最初の一歩の背中を押すことはできても、それだけで文化を作ることはできない。大事なのは、使ってよかった、という手応えを、小さくてもいいから、繰り返し味わえる場を、日常のなかに用意することだ。この順序を取り違えると、努力は空回りする。「まずデータの大切さを分かってもらおう」と、熱心に講義をしても、聞いた人は「なるほど」とうなずくだけで、手は動かない。理屈で好きにさせようとすると、かえって遠ざかる。逆に、理屈は後回しでいい。とにかく一度、自分の数字を見て、そこから小さな気づきを得る——その一回の成功体験が、百の講義より雄弁に、その人を数字へと向かわせる。人は、言葉で説得されて動くのではなく、自分で味わった手応えで動く。だから、育てる側がすべきは、説くことではなく、味わえる場を用意することなのだ。
時間・変化:2013年から2017年へ
順に置く。二〇一三年、Mandinach と Gummer が、正規の学習機会が限られていることを指摘する。二〇一四年、Kwon らが、使った経験が次の活用意向を生むことを示す。二〇一六年、Wolff らと Frank らが、データリテラシーの定義がなお形成途上であることを論じ、同じ年、Gupta と George が、データ分析の力が組織の能力・実践として育つことを示す。二〇一七年、Koltay が、この言葉の多義性を整理する。この歩みで確からしくなったのは、「研修でデータ好きになる」ではない。確からしくなったのは、何を育てるかはなお定まらず、研修効果の証拠は薄く、文化は道具を使う経験のなかに宿る——という向きのほうだ。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「研修を開いた」ことで、データ文化が育ったと思い込むことである。立派な講座を一度開き、受講者数を数えて、満足してしまう。だが、講座のあと、誰も日々の仕事で数字を見なければ、文化は根づかない。助けになるのは、研修でなく、小さくても「使う場」を日常に作ることだ。毎週、一つの数字を見て、一言だけ書く。会議のはじめに、必ず一つの指標を確かめる。そういう小さな習慣を、続けられる形で仕込む。使ってよかった、という手応えが、次に使う気持ちを生み、やがてそれが文化になる。急がず、小さく、繰り返す。文化は、植えるものではなく、育つものだからだ。
この単位は、「研修をするな」と言うものではない。学ぶ機会は、あってよい。言うのは、研修だけで文化は作れない——文化は、道具を使う日々の経験に宿るということだ。何を育てるのかがまだ定まらず、研修効果の証拠も薄いいま、頼るべきは、立派な講座ではなく、小さく使い続ける習慣のほうである。そして、数字で人を管理・監視するために、これをするのではない。データを使う文化は、みなが安心して数字を見て、より良い判断をするために育てる。
最初の一歩は10分。自分の商いで、数字を「使う場面」を一つ、小さく決める。たとえば、毎週月曜に、先週いちばん動いた数字を一つ見て、気づいたことを一言書く——それだけでいい。「研修を受ける」で終わらせない。「いつ・どの数字を・どう使うか」という小さな習慣を一つ決めて、はじめて文化は動き出す。大事なのは、立派さではなく、続けられる小ささである。
- 桃の段、データ文化の単位。研修でデータ好きになるという俗説に向き合う。データリテラシー(データを読み・使う力)は何を指すかの合意がまだ固まらない若い領域。Wolff ら2016(The Journal of Community Informatics 12(3))とFrank ら2016(同誌 12(3))はその定義・身につけ方がなお開かれた問いだと論じ、Koltay 2017(Journal of Librarianship and Information Science 49(1):3-14)は言葉の多義性を整理した。そもそも何を育てるのかが定まっていない
- 証拠の読み違え方は、研修さえ開けばデータ好きになると思い込み、何を育てるのかが未確立で研修効果を測った証拠も薄いという土台の弱さを見落とすこと。中心命題は、文化は研修でなく道具を使う日々の経験に宿ること。F10(人一般の研修・教育)と持ち場切りで、543はデータ固有のリテラシー・文化。数字やデータで人を管理・監視する仕組みを作る話ではない
- Mandinach・Gummer 2013(Educational Researcher 42(1):30-37)は、教育の現場にデータリテラシーを根づかせる道筋を論じ、そもそも正規の学習機会そのものが限られていることを指摘した。この分野の研究の多くは定義・枠組み・必要な能力を論じたもので、研修後にどれだけデータを使うようになったかという効果を測った実証はまだ乏しい。研修を開くこと自体を成果と取り違えず、効果の薄さを薄さのまま正直に見ておく
- Gupta・George 2016(Information & Management 53(8):1049-1064)は、ビッグデータ分析の能力が単発の教育でなく資源・人・実践が組み合わさった組織の能力として時間をかけて育つことを示した。データの道具、それを使う人、実際にデータで意思決定する日々のやり方が噛み合って、はじめてデータを使う力が根づく。分析の力は頭に知識を注ぎ込めば宿るのでなく、実際に使う場のなかで組織全体の習慣として育っていく
- Kwon ら2014(International Journal of Information Management 34(3):387-394)は、データの品質と使った経験と次に分析を取り入れたい意向の関係を調べ、データを実際に使ってよい経験をすることが次に使おうという気持ちを生むことを示した。好きになるから使うのでなく、使って役立つから好きになる。順番は逆で、まず小さく使う場を作り役に立つ経験を積ませ、結果として好きになってもらうのが文化を育てる順序である
- 妨げるのは、研修を開いたことでデータ文化が育ったと思い込むこと。立派な講座を一度開き受講者数を数えて満足するが、講座のあと誰も日々の仕事で数字を見なければ文化は根づかない。助けになるのは、研修でなく小さくても使う場を日常に作ること。毎週一つの数字を見て一言書く、会議のはじめに必ず一つの指標を確かめる。急がず小さく繰り返す。実証は教育・研究・大企業のBI文脈中心で中小・店主に断定転用しない
- 中心命題は、研修だけで文化は作れず、文化は道具を使う日々の経験に宿ること。何を育てるかがまだ定まらず研修効果の証拠も薄いいま、頼るのは立派な講座でなく小さく使い続ける習慣。使ってよかったという手応えが次に使う気持ちを生む。数字で人を管理・監視するためでない。次は544で、この棚を締める——測れないものとどう向き合うか、を扱う
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| データの使い方を教える研修を開けば、人はデータを好きになり、数字で考えるようになる | Wolff ら2016・Frank ら2016は、データリテラシーが何を指し、どうすれば身につくのかがなお形成途上の開かれた問いであることを示した。Koltay 2017はこの言葉が文脈により多義的であることを整理した。そもそも何を育てるのかが定まっておらず、研修さえ開けばデータ好きになると思い込むと、土台の弱さを見落とす。データを使う文化は一度の研修で植えつけられるものではなく、道具を実際に使う日々の経験のなかに少しずつ宿る |
| 研修をすれば、その後は当然データを使えるようになるし、効果も出ているはずだ | Mandinach・Gummer 2013は、教育の現場でそもそも正規の学習機会そのものが限られていることを指摘した。この分野の研究の多くは定義・枠組み・必要な能力を論じたもので、研修後にどれだけデータを使うようになったかという効果を測った実証はまだ乏しい。研修を開くこと自体を成果と取り違えてはならず、講座を開いた・受講者が何人いたは入り口の数であって文化が育った証ではない。効果の薄さを薄さのまま正直に見ておく必要がある |
| まずデータを好きにさせて、それから使わせれば、データ文化は根づく | Gupta・George 2016は、データ分析の能力が単発の教育でなく資源・人・実践が組み合わさった組織の能力として時間をかけて育つことを示した。Kwon ら2014は、データを実際に使ってよい経験をすることが次に使おうという気持ちを生むことを示した。好きになるから使うのではなく、使って役に立つから好きになる。順番は逆で、まず小さく使う場を作り、役に立つ経験を積ませ、結果として好きになってもらうのが文化を育てる順序である |
皮肉なのは、「研修でデータ好きになる」という言葉ほど、データ文化を遠ざけるものはないことだ。立派な講座を一度開いた——その一言で、私たちは安心し、文化が育ったつもりになる。だが、そもそも「データリテラシー」が何を指すのかは、まだ研究の世界でも定まっておらず、研修の効果を測った証拠も薄い。育てる中身も、育て方の効き目も、じつは足元が固まっていないのだ。それでも一つ、確からしくなってきたことがある。データを使う力は、頭に知識を注ぎ込めば宿るのではなく、実際に使ってよい経験をするなかに、少しずつ積もっていく、ということだ。使ってみて役に立つから、好きになる。順番は、その逆ではない。だから、文化を育てたいなら、立派な研修を一度開くより、小さくても数字を使う場を、日々のなかに繰り返し用意するほうがいい。毎週、一つの数字を見て、一言書く。その地味な繰り返しのなかに、文化は静かに宿る。植えるのではなく、育てる——それが、この単位のいちばんの勘どころである。
Q1. 「研修でデータ好きになる」という見方の落とし穴を、データリテラシーの定義の状況(Wolff ら2016・Koltay 2017 等)に触れて説明せよ。一問一答
Q2. Mandinach・Gummer 2013 や、この分野の研究状況について、本文が「研修効果の実証は薄い」と言う理由に最も近いものはどれか。選択
Q3. Gupta・George 2016 は、データ分析の力が単発の教育でなく資源・人・____ が組み合わさった組織の ____ として育つと示した。Kwon ら2014 は、データを使ってよい ____ が、次に使おうという ____ を生むと示した。穴埋め
Q4. 「まず好きにさせて、それから使わせる」ではなく、本文が勧める文化を育てる順序を、Kwon ら2014 と Gupta・George 2016 に触れて説明せよ。一問一答
Q5. この単位が扱った研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Kwon らが使う経験が活用意向を生むと示す(イ)Mandinach・Gummer が正規の学習機会は限られると指摘(ウ)Koltay が言葉の多義性を整理(エ)Gupta・George が文化は組織の能力として育つと示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。自分の商いで、数字を「使う場面」を一つ、小さく決める。たとえば、毎週月曜に、先週いちばん動いた数字を一つ見て、気づいたことを一言書く——それだけでいい。決めたら、(1)いつ(曜日・時刻)、(2)どの数字を、(3)どう使うか(見て一言書く、会議のはじめに確かめる等)、を書き出す。「研修を受ける」で終わらせず、「いつ・どの数字を・どう使うか」という小さな習慣を一つ決めて、はじめて文化は動き出す。大事なのは、立派さではなく、続けられる小ささである。数字で人を管理・監視するためではなく、みなが安心して数字を見て良い判断をするために作る。決めるのは、自分の商いの、続けられる小さな使う場だけである。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Wolff A., Gooch D., Cavero Montaner J.J., Rashid U., Kortuem G. (2016) ‘Creating an Understanding of Data Literacy for a Data-driven Society’, The Journal of Community Informatics 12(3) — doi.org
- Mandinach E.B., Gummer E.S. (2013) ‘A Systemic View of Implementing Data Literacy in Educator Preparation’, Educational Researcher 42(1):30-37 — doi.org
- Koltay T. (2017) ‘Data literacy for researchers and data librarians’, Journal of Librarianship and Information Science 49(1):3-14 — doi.org
- Frank M., Walker J., Attard J., Tygel A. (2016) ‘Data Literacy - What is it and how can we make it happen?’, The Journal of Community Informatics 12(3) — doi.org
- Gupta M., George J.F. (2016) ‘Toward the development of a big data analytics capability’, Information & Management 53(8):1049-1064 — doi.org
- Kwon O., Lee N., Shin B. (2014) ‘Data quality management, data usage experience and acquisition intention of big data analytics’, International Journal of Information Management 34(3):387-394 — doi.org