「交渉に嘘はつきもの」——だが、許される駆け引きと嘘には境界があり、嘘には評判のコストがある
交渉に駆け引きと嘘はつきもの、きれいごとを言えばしてやられる、と教わる。皮肉なことに、嘘はつきものと信じている人ほど、いちばん高い授業料を払わされる。嘘はその場では鮮やかな一勝に見えるが、交渉のテーブルは一度きりではない。人は、だまされたことを驚くほど長く覚えている。一度の嘘で得たものは小さく、失った信用はあとからじわじわと値上がりして請求される。
前の単位で、第三者として対立の間に立つ、中立という構えが手に入った。ここでは、交渉のテーブルで自分が問われる——交渉の倫理を守るにはどうすればいいのかを扱う。
「交渉に、駆け引きと嘘はつきものだ。きれいごとを言っていては、してやられる」——これが、この単位が向き合う俗説である。まず、この単位の構えをはっきりさせておく。この単位は、相手を騙す手口や、うまくごまかす話術を、一つも教えない。 扱うのは、交渉における嘘や欺瞞が、実際にどう研究され、どんな帰結を生むか——その事実だけである。手口ではなく、帰結を見る。そのうえで問いたい。嘘は、本当に「つきもの」なのか。それとも、避けられるものなのか。
「許される駆け引き」には、共通の了解がある
まず、事実として。交渉における「どこまでが許される駆け引きで、どこからが許されない嘘か」は、実証的に研究されている。一九九八年、Lewicki と Robinson が *Journal of Business Ethics* 誌 17(6):665-682 で、交渉の戦術を分類し、人々のあいだに、何を許容できる戦術と見なし、何を許容できないと見なすかについて、一定の共通了解があることを示した。たとえば、自分の手の内をすべては明かさないことと、事実についてはっきり嘘をつくことは、多くの人が別物として扱う。つまり「駆け引き」と「嘘」は、ひとまとめの「つきもの」ではなく、線が引かれている。ここに、この単位の「証拠の読み違え方」がある——「駆け引きはつきもの」を、「嘘もつきもの」と地続きに扱う。 その二つのあいだには、多くの人が共有する境界線がある。この境界を知っておくことには、実利がある。自分がどこまでなら後ろめたくなく、どこからは踏み越えたくないかを、あらかじめ言葉にしておけるからだ。線がぼんやりしていると、その場の勢いで、気づけば嘘の側に足を踏み入れてしまう。逆に、線がはっきりしていれば、駆け引きは堂々とでき、嘘は避けられる。
嘘には短期の得があるが、長期のコストがある
なぜ、嘘は避けたほうがいいのか。道徳を説く前に、帰結を見よう。二〇〇〇年、Boles・Croson・Murnighan が *Organizational Behavior and Human Decision Processes* 誌 83(2):235-259 で、同じ相手と繰り返す交渉を実験で調べ、嘘には一度きりの短期的な得があるが、繰り返しの関係のなかでは、相手の報復を招くことを示した。一度だまされた相手は、次の機会に、自分も強く出たり、相手を罰したりする。嘘でその場の一勝を得ても、関係が続くなら、あとで取り返される。交渉の多くは、一回きりではない。取引先とも、近所とも、家族とも、明日も顔を合わせる。評判は、交渉のテーブルの外に長く残る。 だから嘘は、短期の得と長期の損を天秤にかけると、たいてい割に合わない。しかも、失う信用は、失った瞬間には見えない。だまされた相手は、その場では笑顔で握手を返すかもしれない。だが、次の取引で条件を渋くしたり、周りに「あの人には気をつけろ」と伝えたりする。損は、時間差でやってくる。だから、嘘の損益計算をするなら、その一回の交渉ではなく、その相手とのつき合い全体で見なければならない。
嘘は「つきもの」ではない——環境で増減する
決定的なのは、ここだ。嘘が避けられない宿命なら、倫理を語っても無駄だ。だが、交渉における欺瞞は、状況しだいで増えたり減ったりする。 一九九八年、Aquino が *International Journal of Conflict Management* 誌 9(3):195-217 で、倫理的な空気(エシカル・クライメット)が交渉での欺瞞にどう影響するかを調べ、倫理基準が意識される環境では、欺瞞を促す圧力があっても、欺瞞が減ることを示した。同じく一九九八年、Tenbrunsel が *Academy of Management Journal* 誌 41(3):330-339 で、誘因や誘惑が強い環境ほど、虚偽の表示が起きやすいことを示した。二〇〇九年、Olekalns と Smith が *Journal of Business Ethics* 誌 85(3):347-365 で、権力・信頼・感情といった関係の要素が欺瞞の使われ方を左右することを示している。つまり、嘘は「人の本性だから避けられない」のではなく、環境の設計しだいで減らせる。 これは希望のある知らせだ。もし嘘が変えられない本性なら、できることは何もない。だが、環境で動くのなら、自分の側の環境を整えることで、自分も相手も、正直でいやすくできる。たとえば、交渉の前に「この場では、事実については正直に話しましょう」と一言確認する。それだけで、嘘のハードルは少し上がる。「つきもの」という前提そのものが、崩れる。
守る側にできること——直接、はっきり聞く
では、だまされる側は、どう守ればいいのか。ここでも、手口ではなく、正直な工夫がある。一九九九年、Schweitzer と Croson が *International Journal of Conflict Management* 誌 10(3):225-248 で、相手に直接、はっきりと質問すると、嘘や、都合の悪いことを黙っている不作為が減ることを示した。人は、明確に問われると、はっきりした嘘をつくことには心理的な抵抗を覚える。だから、あいまいに探りを入れるより、「この価格に、ほかに条件はありますか」と直接聞くほうが、正直な答えを引き出しやすい。これは相手をだます技術ではなく、自分がだまされないための、そして相手にも正直でいてもらうための、開かれた問いかけである。守る側の最良の武器は、鋭い駆け引きではなく、率直な質問なのだ。だまされないために、こちらもだます必要はない。むしろ、こちらが率直に問い、率直に答えることが、相手にも同じ振る舞いを促す。交渉は、鏡のようなところがある。疑いには疑いが、正直には正直が、返ってきやすい。だから、正直さは弱さではなく、相手の正直さを引き出す、静かな力でもある。もちろん、率直に問うても、相手が嘘をつくことはある。それでも、直接問うたという事実は残り、後で嘘が露見したとき、こちらの立場を強くする。
時間・変化:1998年から2009年へ
順に置く。一九九八年、Lewicki と Robinson が、許される戦術と許されない戦術の共通了解を示し、Aquino が、倫理基準が意識されると欺瞞が減ることを示し、Tenbrunsel が、誘惑の強い環境ほど虚偽が起きやすいことを示す。一九九九年、Schweitzer と Croson が、直接の質問が嘘と不作為を減らすことを示す。二〇〇〇年、Boles らが、嘘は繰り返しの関係で報復を招くことを示す。二〇〇九年、Olekalns と Smith が、権力・信頼・感情が欺瞞の使われ方を左右することを示す。この十年ほどで確からしくなったのは、「交渉に嘘はつきもの」ではない。確からしくなったのは、許される駆け引きと嘘には境界があり、嘘には評判の長期コストがあり、欺瞞は環境の設計で減らせる——という向きのほうだ。倫理は、生まれつきの才能ではなく、その場ごとの設計と、日々の習慣の問題だと分かってきたのである。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
倫理についての、断りを一つ。 この単位は、嘘や操作の手口を、一つも書かない。ここで示したのは、欺瞞がどう研究され、どんな帰結を生むかという事実だけである。ここに挙げた実証の多くは、MBAや学生が参加した模擬交渉によるものだ。実験室の交渉と、あなたの実地の交渉には距離がある。だから、細かい数字ではなく、向き——嘘には評判コストがあり、環境で減らせる——だけを受け取ってほしい。この単位が示したかったのは、正直でいるべきだ、という説教ではない。正直でいることには、道徳とは別に、実利がある、という事実だ。評判という長い目で見れば、正直は割に合う。だから、きれいごととしてではなく、割のいい選択として、正直を選べる。
妨げるものの筆頭は、「駆け引きはつきもの」という言葉を、嘘までの免罪符にしてしまうことである。手の内を明かしすぎないことと、事実で嘘をつくことは、多くの人にとって別物だ。つきものという一言で、この二つをまとめて正当化してしまうと、いつのまにか嘘の側へ、なし崩しに滑っていく。助けになるのは、自分がだまされないために率直に質問すること、そして自分の側にも、倫理の線をあらかじめ引いておくことだ。どこまでは開示し、どこからは踏み込まないかを、テーブルにつく前に自分で決めておく。線を決めておけば、その場の空気に流されにくい。交渉の場は、思いのほか熱くなる。相手の一言に、つい大きなことを言い返したくなる。そのとき、事前に引いた線があれば、踏み越えそうな自分を、線が引き戻してくれる。倫理は、その場のとっさの良心に頼るより、あらかじめ自分と交わした約束として持っておくほうが、ずっと守りやすい。
最初の一歩は10分。自分が過去にした、あるいはこれからしそうな駆け引きを一つ思い浮かべる。それについて、(1)それは「手の内を明かさない」の範囲か、「事実で嘘をつく」の範囲か、(2)その相手と、この先も関係が続くか、(3)もし正直に開示していたら、評判や関係はどう違ったか、を書き出す。相手をだます手口を書かない。相手を試す実験もしない。点検するのは、自分の駆け引きの線引きと、その評判へのはね返りだけである。
- この単位は嘘や操作の手口を一つも教えず、交渉における嘘や欺瞞がどう研究されどんな帰結を生むかという事実だけを扱う(倫理注記)。Lewicki・Robinson 1998(Journal of Business Ethics 17(6):665-682)は交渉の戦術を分類し、何を許容できる戦術と見なし何を許容できないと見なすかに一定の共通了解があると示した。証拠の読み違え方は、駆け引きはつきものを嘘もつきものと地続きに扱うこと。手の内を明かさないことと事実で嘘をつくことは多くの人が別物として扱う
- 嘘の帰結を、道徳を説く前に見る。Boles・Croson・Murnighan 2000(Organizational Behavior and Human Decision Processes 83(2):235-259)は、同じ相手と繰り返す交渉を実験で調べ、嘘には一度きりの短期的な得があるが繰り返しの関係では相手の報復を招くと示した。一度だまされた相手は次に強く出たり罰したりする。交渉の多くは一回きりではなく、評判はテーブルの外に長く残る。嘘は短期の得と長期の損を天秤にかけるとたいてい割に合わない
- 決定的なのは、交渉における欺瞞は状況しだいで増減すること。Aquino 1998(International Journal of Conflict Management 9(3):195-217)は、倫理基準が意識される環境では欺瞞を促す圧力があっても欺瞞が減ると示した。嘘は人の本性ゆえに避けられないのではなく、環境の設計しだいで減らせる。つきものという前提そのものが崩れる
- Tenbrunsel 1998(Academy of Management Journal 41(3):330-339)は、誘因や誘惑が強い環境ほど虚偽の表示が起きやすいと示し、Olekalns・Smith 2009(Journal of Business Ethics 85(3):347-365)は、権力・信頼・感情が欺瞞の使われ方を左右すると示した。欺瞞は個人の悪意だけでなく置かれた環境の誘惑や関係の力学に左右される。だから環境の側を設計することが効く
- 守る側にできること。Schweitzer・Croson 1999(International Journal of Conflict Management 10(3):225-248)は、相手に直接はっきり質問すると、嘘や、都合の悪いことを黙っている不作為が減ると示した。人は明確に問われるとはっきりした嘘には心理的抵抗を覚える。あいまいに探るより、直接聞くほうが正直な答えを引き出しやすい。これは相手をだます技術ではなく、自分がだまされず相手にも正直でいてもらうための開かれた問いかけ
- 確からしくなったのは、交渉に嘘はつきもの、ではない。許される駆け引きと嘘には境界があり、嘘には評判の長期コストがあり、欺瞞は環境の設計で減らせる、という向き。ここに挙げた実証の多くはMBAや学生の模擬交渉で、実験室の交渉と実地には距離がある。だから細かい数字ではなく、嘘には評判コストがあり環境で減らせるという向きだけを受け取る
- 倫理注記——この単位は嘘や操作の手口を書かない。妨げるものの筆頭は、駆け引きはつきものという言葉を、嘘までの免罪符にしてしまうこと。助けになるのは、自分がだまされないために率直に質問すること、そして自分の側にも倫理の線をあらかじめ引いておくこと。どこまで開示しどこから踏み込まないかをテーブルにつく前に自分で決めておけば、その場の空気に流されにくい
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 交渉に駆け引きと嘘はつきものだから、多少の嘘は避けられないし、正直では損をする | Lewicki・Robinson 1998は交渉の戦術を分類し、何を許容できる戦術と見なし何を許容できないと見なすかに一定の共通了解があると示した。手の内をすべては明かさないことと、事実についてはっきり嘘をつくことは、多くの人が別物として扱う。駆け引きはつきものを、嘘もつきものと地続きに扱ってはならない。二つのあいだには多くの人が共有する境界線がある |
| 嘘でその場を有利に運べれば得なのだから、ばれなければ嘘は交渉の合理的な武器だ | Boles・Croson・Murnighan 2000は、同じ相手と繰り返す交渉を実験で調べ、嘘には一度きりの短期的な得があるが、繰り返しの関係では相手の報復を招くと示した。一度だまされた相手は次に強く出たり罰したりする。交渉の多くは一回きりではなく、評判はテーブルの外に長く残る。嘘は短期の得と長期の損を天秤にかけると、たいてい割に合わない |
| 嘘は人の本性だから避けられない。倫理を語っても、交渉の場では現実に負ける | 交渉における欺瞞は状況しだいで増減する。Aquino 1998は倫理基準が意識される環境では欺瞞を促す圧力があっても欺瞞が減ると示し、Tenbrunsel 1998は誘因や誘惑が強い環境ほど虚偽が起きやすいと示し、Olekalns・Smith 2009は権力・信頼・感情が欺瞞の使われ方を左右すると示した。嘘は本性ゆえに避けられないのではなく環境の設計で減らせる。つきものという前提そのものが崩れる |
皮肉なのは、「交渉に嘘はつきもの」と信じている人ほど、いちばん高い授業料を払わされることである。嘘は、その場では鮮やかな一勝に見える。相手は気づかず、こちらは得をした。だが、交渉のテーブルは、たいてい一度きりではない。明日も、来年も、同じ相手と向かい合う。そして人は、だまされたことを驚くほど長く覚えている。一度の嘘で得たものは小さく、失った信用は、あとからじわじわと値上がりして請求される。いちばん強い交渉者は、鋭い嘘をつける人ではない。この人の言うことは信じられる、と相手に思わせられる人だ。正直さは、きれいごとではなく、いちばん割のいい長期投資である。
Q1. 「交渉に嘘はつきもの」という言い方の落とし穴を、Lewicki・Robinson 1998 に触れて説明せよ。何を何と地続きに扱ってしまっているのかにも触れること。一問一答
Q2. Boles・Croson・Murnighan 2000 が、繰り返す交渉における嘘について示したこととして正しいものはどれか。選択
Q3. 交渉における欺瞞は状況で増減する。Aquino 1998 は、____ 基準が意識される環境では、欺瞞を促す ____ があっても欺瞞が減ると示した。Tenbrunsel 1998 は、____ や誘惑が強い環境ほど虚偽が起きやすいと示した。つまり嘘は人の ____ ゆえに避けられないのではなく、環境の設計で減らせる。穴埋め
Q4. だまされる側が「守る」ためにできることを、Schweitzer・Croson 1999 に触れて説明せよ。それが相手をだます技術と何が違うのかも述べよ。一問一答
Q5. この単位が扱った研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Boles らが嘘は繰り返しの関係で報復を招くと示す(イ)Lewicki・Robinson が許される戦術と許されない戦術の共通了解を示す(ウ)Olekalns・Smith が権力・信頼・感情が欺瞞を左右すると示す(エ)Schweitzer・Croson が直接の質問が嘘と不作為を減らすと示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。自分が過去にした、あるいはこれからしそうな交渉での駆け引きを一つ思い浮かべる——値段の話、条件の話、身内やご近所との取り決めなど。三つを書く。(1)それは「自分の手の内をすべては明かさない」の範囲か、「事実についてはっきり嘘をつく」の範囲か。(2)その相手とは、この先も関係が続くか、一度きりか。(3)もし正直にすべてを開示していたら、評判や関係はどう違ったか。相手をだます手口は書かない。相手を試す実験もしない。点検するのは、自分の駆け引きの線引きと、その評判へのはね返りだけ。一人で身内の取り決めをする場合も同じ三つを書けばよい。この記録は自分の倫理の線を自分で引くためで、相手を出し抜くためではない。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Lewicki R.J., Robinson R.J. (1998) ‘Ethical and Unethical Bargaining Tactics: An Empirical Study’, Journal of Business Ethics 17(6):665-682 — doi.org
- Boles T.L., Croson R.T.A., Murnighan J.K. (2000) ‘Deception and Retribution in Repeated Ultimatum Bargaining’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 83(2):235-259 — doi.org
- Schweitzer M.E., Croson R. (1999) ‘Curtailing Deception: The Impact of Direct Questions on Lies and Omissions’, International Journal of Conflict Management 10(3):225-248 — doi.org
- Aquino K. (1998) ‘The Effects of Ethical Climate and the Availability of Alternatives on the Use of Deception During Negotiation’, International Journal of Conflict Management 9(3):195-217 — doi.org
- Olekalns M., Smith P.L. (2009) ‘Mutually Dependent: Power, Trust, Affect and the Use of Deception in Negotiation’, Journal of Business Ethics 85(3):347-365 — doi.org
- Tenbrunsel A.E. (1998) ‘Misrepresentation and Expectations of Misrepresentation in an Ethical Dilemma: The Role of Incentives and Temptation’, Academy of Management Journal 41(3):330-339 — doi.org