「研修すれば組織に広がる」——だが、力を次へ運ぶのは、記録し、比べ、振り返る習慣だ
交渉がうまい人を呼んで研修すれば組織に広がる、と教わる。皮肉なことに、いちばん交渉がうまい組織ほど、交渉が話題にならない。もめないからだ。訴訟も、こじれた商談も、決裂の後始末もない。ただ、準備が行き届き、記録が積み重なり、次が静かにまとまる。その静けさは、才能ではなく習慣の産物である。派手な武勇伝が必要なのは、もめたからだ。
前の単位で、自分の側に倫理の線を引く、という構えが手に入った。ここでは、その一人ひとりの交渉の力を、どうすれば周りに広げられるのか——交渉力を組織に広げるにはどうすればいいのかを扱う。そして、これがこの棚の最後の単位である。
「交渉がうまい人を講師に呼んで、研修をやれば、そのやり方が組織に広がる」——これが、この単位が向き合う俗説であり、この棚を締める最後の問いである。まず、この棚が16回くり返してきた見方を、最後にもう一度置く。★465で、この棚は正面から言った——「準備が交渉の8割」というが、その8割に出典はない。交渉の名著の教えは実在するが、実証の大半は学生の模擬交渉であり、実際の紛争での実地実験はまれである。教えの由緒と、目の前の相手への効き目は、別物だ。 この見方は、研修そのものにも、そのまま跳ね返ってくる。
研修には効果がある——だが、その測定は弱い
まず公平に言う。交渉研修には、効果があると考えていい。 二〇〇八年、Movius が *Negotiation Journal* 誌 24(4):509-531 で、交渉研修の効果に関する研究を総括し、研修が正の効果を持ちうることを整理した。ただし、同じレビューが示したのは、もう一つの厳しい事実だ——その効果が、どこまで、どのように現場に根づくかの測定は、まだ弱い。 研修の場でうまくできることと、それが数か月後の実際の交渉に移ること(転移)とは、別である。ここに、この単位の「証拠の読み違え方」がある——研修を受けたこと(学習)を、現場で使えるようになったこと(転移)と取り違える。 研修を一度やった、という事実は、組織に交渉力が根づいた、という結果を意味しない。研修を発注した側は、実施したこと自体で「やった」と満足しがちだ。だが、受けた人の何割が、三か月後の本番で、その学びを実際に使えているか——そこまで測って初めて、研修が根づいたと言える。そして、その最後の一歩——研修での学習が現場に転移したか——まで測っている組織は、驚くほど少ないのである。
経験を積むだけでは、うまくならない
では、数をこなせば——たくさん交渉すれば、自然にうまくなるのか。ここも、素直ではない。二〇〇三年、Nadler・Thompson・Van Boven が *Management Science* 誌 49(4):529-540 で、交渉スキルがどう身につくかを調べ、ただ経験を重ねるだけのやり方は、観察や類推によって学ぶやり方に、成果で及ばないことを示した。回数だけを重ねても、そのつど何が効いて何が効かなかったのかを取り出さなければ、次に活きない。経験は、振り返って言葉にされて初めて、教訓になる。数をこなすことと、うまくなることは、同じではない。「場数を踏め」だけでは、組織の交渉力は育たない。 ベテランが必ずしも交渉上手とは限らないのは、このためだ。同じ失敗を、振り返らないまま、二十年くり返している人もいる。逆に、経験は浅くても、一つひとつの交渉を丁寧に振り返る人は、速く伸びる。差を生むのは、経験の量ではなく、経験から学びを取り出す習慣のほうである。だから、組織が育てるべきは、たくさん交渉させることより、交渉のあとに短く振り返らせる、その一手間のほうだ。
転移を生むのは、事例を「比べる」こと
では、何が、身につけた力を次の場面へ移すのか。鍵は、複数の事例を並べて、比べることにある。一九九九年、Loewenstein・Thompson・Gentner が *Psychonomic Bulletin & Review* 誌 6(4):586-597 で、二つ以上の交渉事例を並べて共通の構造を抜き出す学び方(類推的符号化)が、交渉スキルの転移を促すことを示した。二〇〇三年、Gentner・Loewenstein・Thompson が *Journal of Educational Psychology* 誌 95(2):393-408 で、この「事例を比べて構造を取り出す」学びが、交渉に限らず広く転移を生む一般的な原理であることを示している。一つの成功談を聞くだけでは、その場限りで終わる。だが、二つの事例を並べて「共通しているのは何か」を取り出すと、目の前の新しい場面にも使える型が残る。そして、事例を並べて比べるとは、要するに、交渉を記録し、見比べることにほかならない。 ここで、この棚の締めの糸口が見えてくる。転移を生むのは、名講師の話術でも、個人の才能でもない。過去の交渉を記録に残し、二つ、三つと並べて「共通しているのは何か」を取り出す——その地味な作業こそが、力を次の場面へ運ぶ。だとすれば、組織に交渉力を広げる鍵も、研修という一日のイベントより、記録と見比べの習慣のほうにあることになる。
研修は、片方だけでは足りない
もう一つ、研修の設計についての条件がある。二〇一三年、Zerres らが *Journal of Applied Psychology* 誌 98(3):478-491 で、統合型の交渉研修の効果を時間をかけて追い、自分だけが訓練を受けても、相手も同じように訓練されているかで、結果が変わることを示した。交渉は一人でするものではない。片方だけがうまくなっても、もう片方が身構えてしまえば、かみ合わない。そして、フィードバックと振り返りが、学びを支える。一九九四年、Thompson と DeHarpport が *Organizational Behavior and Human Decision Processes* 誌 58(3):327-345 で、交渉の後にフィードバックを受け、振り返ることが、対人的な学習を進めることを示した。研修の一日より、そのあとの振り返りの習慣のほうが、長く効く。一日の研修は、打ち上げ花火のように、その日は明るいが、翌週には暗くなる。だが、交渉のたびに短く振り返る習慣は、地味な常夜灯のように、ずっと灯り続ける。組織に残したいのは、花火ではなく、常夜灯のほうだ。そして常夜灯は、大きな予算も、外部の講師もいらない。交渉が一つ終わるたびに、何が効いて何が効かなかったかを、数行、書き留める。ただそれだけの習慣が、続けば続くほど、組織の中に事例の束を育てていく。その事例の束は、次の誰かの準備の、生きた材料へと育っていく。
時間・変化:1994年から2013年へ
順に置く。一九九四年、Thompson と DeHarpport が、フィードバックと振り返りが学習を進めることを示す。一九九九年、Loewenstein らが、事例を比べる学び(類推的符号化)が転移を生むことを示す。二〇〇三年、Nadler らが、経験だけでは転移せず観察・類推が有効なことを示し、Gentner らが、事例比較が広く転移を生む一般原理であることを示す。二〇〇八年、Movius が、交渉研修は効果を持ちうるが測定は弱いことを総括する。二〇一三年、Zerres らが、研修は双方向でこそ効くことを示す。この二十年で確からしくなったのは、「研修すれば組織に広がる」ではない。確からしくなったのは、研修の効果の測定は弱く、経験だけでは転移せず、事例を比べ、記録し、振り返る仕組みこそが、力を次へ運ぶ——という向きのほうだ。
この棚を締める——交渉力は、記録の習慣として組織に残る
ここで、この棚を締める。最後にたどり着いたのが「組織に広げる」であることには、意味がある。組織に残る交渉力とは、話のうまい人の頭の中にある技ではない。決裂も含めて交渉を記録し、事例を並べて見比べ、次に活かす——その仕組みのことだ。 話術は、その人が辞めれば消える。だが、記録された事例と、それを見比べる習慣は、組織に残る。これが、通奏低音②の回収である——交渉力は、話術ではなく、記録の習慣として組織に残る。そして最良の交渉は、交渉と気づかれないまま終わる。 派手な駆け引きで勝った交渉ではなく、準備が行き届いていて、もめることなく静かにまとまった交渉こそが、いちばん力のある交渉だ。だが、その静かな成功は、記録しなければ、誰にも——自分にさえ——気づかれずに流れていく。派手に決裂して裁判になった一件は、誰もが覚えている。だが、もめる前に準備で防いだ百件は、何も起きなかったせいで、記憶にも記録にも残らない。だから、意識して記録しないかぎり、いちばん上手な交渉ほど、なかったことになってしまう。
そして、これがこの棚の構造そのものだ。この棚は、準備(★465)から始まり、設計、対話、合意、そして紛争解決へとファネルを下ってきた。だが、その出口は、入口に戻る。組織に交渉力を広げる最良の道は、研修という一日のイベントではなく、いちばん最初に置いた、地味な準備——記録し、見比べ、次に備えるという習慣を、一人ひとりの中に育てることである。 だから、この棚の終わりは、始まりに帰る。★465へ——交渉のたびに準備し、終われば記録し、次の準備に活かす。その静かな往復こそが、消えない交渉力の正体である。 この往復は、才能のある一人がいなくても回る。むしろ、才能に頼らないからこそ、人が入れ替わっても、組織に残る。名人芸は一代で消えるが、記録と習慣は引き継げる。組織に広げるとは、名人を増やすことではなく、名人がいなくても回る仕組みを、静かに根づかせることなのだ。
この棚は、必ず勝てる交渉術を、一つも教えなかった。渡したのは、二つの見方だけだ——その交渉術の効き目は、誰が、どこで測ったのか。そして、あなたのいちばん上手な交渉は、たぶん、もめずに終わったせいで、誰にも数えられていないのではないか。
- この棚の締めの単位。交渉研修には効果があると考えていい。Movius 2008(Negotiation Journal 24(4):509-531)は交渉研修の研究を総括し正の効果を持ちうると整理したが、その効果がどこまでどのように現場に根づくかの測定はまだ弱いと示した。研修の場でうまくできることと数か月後の実際の交渉に移ること(転移)は別。証拠の読み違え方は、研修を受けたこと(学習)を現場で使えること(転移)と取り違えること
- 経験を積むだけではうまくならない。Nadler・Thompson・Van Boven 2003(Management Science 49(4):529-540)は、ただ経験を重ねるやり方は観察や類推で学ぶやり方に成果で及ばないと示した。回数を重ねても何が効いたかを取り出さなければ次に活きない。経験は振り返って言葉にされて初めて教訓になり、場数だけでは組織の交渉力は育たない
- 転移を生むのは事例を比べること。Loewenstein・Thompson・Gentner 1999(Psychonomic Bulletin & Review 6(4):586-597)は、二つ以上の交渉事例を並べて共通の構造を抜き出す学び(類推的符号化)が交渉スキルの転移を促すと示した。一つの成功談はその場限りだが、複数事例を並べて共通点を取り出すと使える型が残る。事例を並べて比べるとは要するに交渉を記録し見比べること
- Gentner・Loewenstein・Thompson 2003(Journal of Educational Psychology 95(2):393-408)は、事例を比べて構造を取り出す学びが交渉に限らず広く転移を生む一般原理だと示した。だから記録し比べる仕組みは、特定の交渉術より汎用性が高い。なお Thompson・DeHarpport は別単位(決裂の振り返り)でも参照するが本単位は研修・組織学習の別文脈で用いる
- 研修は片方だけでは足りない。Zerres ら2013(Journal of Applied Psychology 98(3):478-491)は、統合型の交渉研修の効果を追い、自分だけが訓練を受けても相手も訓練されているかで結果が変わると示した。片方だけうまくなってももう片方が身構えればかみ合わない。Thompson・DeHarpport 1994(OBHDP 58(3):327-345)は、交渉後のフィードバックと振り返りが対人的な学習を進めると示した
- 確からしくなったのは、研修すれば組織に広がる、ではない。研修の効果の測定は弱く、経験だけでは転移せず、事例を比べ・記録し・振り返る仕組みこそが力を次へ運ぶ、という向き。研修効果の実証は学生・実験室中心のため、研修で組織が変わると断定しない。研修は無駄ではなく、記録と比較が残る、へ。研修一日より、そのあとの振り返りの習慣のほうが長く効く
- 通奏低音②の回収(棚締め)——組織に残る交渉力とは話のうまい人の頭の中の技ではなく、決裂も含めて交渉を記録し事例を並べて見比べ次に活かす仕組みのこと。交渉力は話術ではなく記録の習慣として組織に残る。最良の交渉は交渉と気づかれないまま終わる——もめずに静かにまとまった交渉こそ力があるが、記録しなければ誰にも気づかれず流れていく。棚の出口は入口に帰り★465(準備)へ戻る
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 交渉がうまい人を講師に呼んで研修をやれば、そのやり方が組織に広がって定着する | Movius 2008は交渉研修の研究を総括し、研修が正の効果を持ちうる一方、その効果がどこまで現場に根づくかの測定はまだ弱いと整理した。研修の場でうまくできることと、数か月後の実際の交渉に移ること(転移)は別である。研修を受けたこと(学習)を、現場で使えるようになったこと(転移)と取り違えてはならない。研修を一度やった事実は、組織に交渉力が根づいた結果を意味しない |
| 研修より場数だ。とにかくたくさん交渉して経験を積めば、自然にうまくなって広がる | Nadler・Thompson・Van Boven 2003は、交渉スキルの身につき方を調べ、ただ経験を重ねるやり方は、観察や類推で学ぶやり方に成果で及ばないと示した。回数を重ねても、何が効いて何が効かなかったかを取り出さなければ次に活きない。経験は、振り返って言葉にされて初めて教訓になる。場数だけでは組織の交渉力は育たない |
| 良い交渉術を一つ教えれば、それを覚えて使い回せば、どんな交渉にも通用する | Loewenstein ら1999は、二つ以上の交渉事例を並べて共通の構造を抜き出す学び(類推的符号化)が転移を促すと示し、Gentner ら2003はそれが広く転移を生む一般原理だと示した。一つの成功談はその場限りだが、複数の事例を並べて共通点を取り出すと新しい場面にも使える型が残る。事例を並べて比べるとは、要するに交渉を記録し見比べることであり、それが力を次へ運ぶ |
皮肉なのは、いちばん交渉がうまい組織ほど、交渉が話題にならない、ということだ。もめないからだ。訴訟も、こじれた商談も、決裂の後始末もない。ただ、準備が行き届き、記録が積み重なり、次が静かにまとまっていく。その静けさは、才能ではなく習慣の産物である。逆に、派手な交渉武勇伝が飛び交う組織は、たぶん、そのたびにもめている。武勇伝が必要なのは、もめたからだ。だから、交渉力を組織に広げたいなら、目指すべきは語り草になる名交渉ではない。誰にも気づかれないまま静かに片づく、たくさんの平凡な合意である。数えられないその静けさこそが、この棚が準備で始め、準備へ帰る理由なのだ。
Q1. 「研修すれば組織に広がる」という言い方の落とし穴を、Movius 2008 に触れ、「学習」と「転移」という言葉を使って説明せよ。一問一答
Q2. Nadler・Thompson・Van Boven 2003 が交渉スキルの身につき方について示したこととして正しいものはどれか。選択
Q3. Loewenstein ら1999 は、二つ以上の交渉事例を並べて共通の ____ を抜き出す学び方(____ 的符号化)が、交渉スキルの ____ を促すと示した。事例を並べて比べるとは、要するに交渉を ____ し、見比べることにほかならない。穴埋め
Q4. この棚が最後に「組織に広げる」で終わり、★465(準備)へ帰ることには、どんな意味があるか。通奏低音②を書き、この棚がファネルとして始点に帰る構造に触れて説明せよ。一問一答
Q5. この単位が扱った研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Loewenstein らが事例を比べる学びが転移を生むと示す(イ)Thompson・DeHarpport がフィードバックと振り返りが学習を進めると示す(ウ)Movius が交渉研修は効果を持ちうるが測定は弱いと総括する(エ)Zerres らが研修は双方向でこそ効くと示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。自分が最近おこなった交渉を二つ思い浮かべる——値段や条件の話、身内やご近所との取り決め、業務の分担など、どんな小さなものでもよい。二つを並べて三つを書く。(1)二つに共通していたこと(効いた準備、うまくいった問いかけ、つまずいた場面)。(2)二つで違っていたこと(相手・状況・結果)。(3)その比較から引ける、次の交渉への教訓を一つ。これが、事例を並べて構造を取り出す(類推的符号化)という、力を次へ運ぶ学び方そのものである。相手を実験台にしない。点検するのは、自分の過去の交渉の記録と、そこから引く教訓だけ。一人で身内の取り決めをする場合も、過去の二つを並べて同じ三つを書けばよい。この記録の習慣こそが、消えない交渉力の作り方である。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Movius H. (2008) ‘The Effectiveness of Negotiation Training’, Negotiation Journal 24(4):509-531 — doi.org
- Nadler J., Thompson L., Van Boven L. (2003) ‘Learning Negotiation Skills: Four Models of Knowledge Creation and Transfer’, Management Science 49(4):529-540 — doi.org
- Loewenstein J., Thompson L., Gentner D. (1999) ‘Analogical Encoding Facilitates Knowledge Transfer in Negotiation’, Psychonomic Bulletin & Review 6(4):586-597 — doi.org
- Gentner D., Loewenstein J., Thompson L. (2003) ‘Learning and Transfer: A General Role for Analogical Encoding’, Journal of Educational Psychology 95(2):393-408 — doi.org
- Zerres A., Hüffmeier J., Freund P.A., Backhaus K., Hertel G. (2013) ‘Does It Take Two to Tango? Longitudinal Effects of Unilateral and Bilateral Integrative Negotiation Training’, Journal of Applied Psychology 98(3):478-491 — doi.org
- Thompson L., DeHarpport T. (1994) ‘Social Judgment, Feedback, and Interpersonal Learning in Negotiation’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 58(3):327-345 — doi.org