「決裂は失敗」——だが失敗はBATNAより悪い合意のほうで、決裂そのものではない
「決裂だけは避けたい」と最も強く思うときほど、留保値より悪い条件を、自分から進んで受けてしまう。テーブルを立つ勇気が無いと知られれば、こちらの降りる線は、相手にとってあってないようなものになる。決裂は痛い——だが、BATNAより悪い合意にサインした痛みは、決裂の痛みより長く尾を引く。まとまらなかった交渉は、失敗ではなく、次のためのいちばん濃い教材かもしれない。
決裂を次につなげるとは、何を指すのか
前の単位で、合意を文書にするか否かの判断が手に入った。それを、そもそも合意しないという選択——決裂——をどう評価するかへ進める。
まず言葉をほどく。決裂とは、交渉がまとまらず、合意に至らないまま終わることである。俗説はこれを「失敗」と呼ぶ。だが、この単位はそこに疑問を置く。手がかりになるのが、BATNA(バトナ)——Best Alternative To a Negotiated Agreement、つまり「その交渉が決裂したときに、代わりに取れる最善の道」のことだ。もう一つ、留保値——「これ以下なら合意しないと決めておく線」も鍵になる。交渉のテーブルにつくのは交渉担当だけではない。取引条件を詰める代表も、家賃を交渉する借り手も、外注費を決める個人も、もめ事を収めようとする店主も、ここに立つ。そして思い出しておきたい——合意しないことが最善の場合がある。 交渉は相手を打ち負かす競技ではなく、合意の質を上げる共同作業だ。言うことは三つ。決裂とは何を指すのか、決裂を避けるとどこまで良い結果になると確かめられているのか、その範囲の外で何が起きるか。あらかじめ、「必ず合意すべき」とも「必ず勝てる」とも保証しないことを断っておく。
「決裂は失敗」の裏——BATNAより悪い合意こそ失敗
まず、決裂の見直しから。BrettとPinkley、Jackofskyが1996年に『Alternatives to Having a BATNA in Dyadic Negotiation』(International Journal of Conflict Management 7(2):121-138) で示したのは、代替案・目標水準・自己効力感(自分はやれるという感覚)が、交渉の結果を左右する、ということだった。良い代替案があれば、悪い条件を断って決裂を選べる。逆に、代替案が無いと思い込むと、決裂を恐れてどんな条件でも飲んでしまう。
Pinkleyが1995年に『Impact of knowledge regarding alternatives to settlement』(Journal of Applied Psychology 80(3):403-417) で示したのも、代替案についての知識が、交渉力そのものを左右する、ということだ。ここから見えてくるのは、決裂そのものは失敗ではない、という向きである。失敗と呼ぶべきは、BATNAより悪い合意を、決裂を避けたいがために受けてしまうことだ。決裂して代替案に進むほうが、悪い合意にサインするより良い場面は、確かにある。「まとまった」ことは、それだけでは成功ではない。
留保値と期待水準が、合意の可否と質を決める
では、どこで線を引けばいいのか。WhiteとNealeが1994年に『The Role of Negotiator Aspirations and Settlement Expectancies in Bargaining Outcomes』(Organizational Behavior and Human Decision Processes 57(2):303-317) で示したのは、交渉者の目標水準(どこを目指すか)と、留保値(どこで降りるか)が、合意の可否と質の両方を決める、ということだった。
留保値をあらかじめ持っておくと、その線より悪い条件が出てきたときに、「ここは降りる」と判断できる。線が無いと、交渉の流れやその場の空気に押されて、後から見れば飲むべきでなかった条件を、飲んでしまう。大事なのは、この線を、交渉が始まる前の冷静なうちに引いておくことだ。話し合いのさなかは、相手の言い分や、まとめたいという焦りで、頭が熱くなっている。熱くなった頭で引き直した線は、たいてい自分に不利なほうへずれる。だから留保値は、その場で決めるものではなく、あらかじめ決めて持ち込むものである。ここで棚の見方を当てておく——これらの実証の多くは模擬交渉であり、あなたの一件にそのまま当てはまるとは限らない。だが、「降りる線を先に決めておく」という構えそのものは、どんな交渉にも持ち込める。留保値は、決裂を恐れないための、自分への備えである。
決裂を避けたい気持ちが、判断を曇らせる
ところが、この「降りる」判断は、心理に逆らう。TuncelとMislin、Kesebir、Pinkleyが2016年に『Agreement Attraction and Impasse Aversion』(Psychological Science 27(3):312-321) で示したように、人には決裂を避けたいという強い傾向(impasse aversion)があり、そのために「合意なし」より悪い合意を、それでも選んでしまう。
「決裂=失敗」という思い込みは、この傾向をさらに強める。テーブルを立つことを「負け」だと感じると、留保値より悪い条件でも、まとめてしまいたくなる。だからこそ、決裂を最初から「あり得る選択肢の一つ」として持っておくことが要る。決裂は、避けるべき事故ではなく、留保値を守った結果として起こりうる、正当な結末の一つだ。降りることを自分に許しておかないと、留保値はただの飾りになる。そして、この心理は相手にも見えている。こちらが何が何でもまとめたいと構えていると察すれば、相手はぎりぎりまで押してくる。逆に、悪い条件なら本当に降りる、という構えが伝われば、無理な条件は出しにくくなる。つまり、降りる覚悟は、たんに自分を守るだけでなく、交渉の場そのものの温度を変える。決裂を選べる人だけが、決裂せずに良い合意にたどり着ける、という逆説がここにある。
決裂も、振り返れば次の糧になる
そして、決裂には、もう一つの値打ちがある。振り返れば、次の交渉の糧になることだ。ThompsonとDeHarpportが1994年に『Social Judgment, Feedback, and Interpersonal Learning in Negotiation』(Organizational Behavior and Human Decision Processes 58(3):327-345) で示したのは、交渉のあとにフィードバックを得て振り返る人が、対人的な学習を進める、ということだった。
さらにKrayとGalinsky、Markmanが2009年に『Counterfactual structure and learning from experience in negotiations』(Journal of Experimental Social Psychology 45(4):979-982) で示したのは、「もしあのとき違う手を打っていたら」という反実仮想(counterfactual)の振り返りが、経験からの学習を促すということだった(これはアンカリングの研究ではなく、反実仮想からの学習を扱った別テーマの研究である)。決裂したときこそ、「何が足りなかったか」「代替案をもっと用意できたか」を振り返る材料が揃う。まとまった交渉より、決裂した交渉のほうが、次への学びは大きいことさえある。決裂を隠したり、なかったことにしたりせず、記録して振り返る——それが、決裂を次につなげる、ということだ。
時間・変化:1994年から2016年へ
順に置く。1994年、WhiteとNealeが目標水準と留保値が合意の可否と質を決めると示し、ThompsonとDeHarpportがフィードバックからの学習を示す。1995年、Pinkleyが代替案の知識が交渉力を左右すると示し、1996年、BrettとPinkley、Jackofskyが代替案・目標・自己効力感の効果を示す。2009年、KrayとGalinsky、Markmanが反実仮想からの学習を、2016年、Tuncelらが決裂を避けたいあまり悪い合意を選ぶ傾向を示した。
この間に確からしくなったのは、「決裂は失敗」という思い込みではない。確からしくなったのは、代替案と留保値が合意の可否と質を決め、決裂を避けたい気持ちが判断を曇らせ、そして決裂も振り返れば次の糧になる、という向きの事実である。失敗と呼ぶべきはBATNAより悪い合意のほうであって、決裂そのものではない。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「決裂=失敗」という思い込みが、留保値より悪い条件を飲ませてしまうことである。テーブルを立つということは、それ自体は負けではない。もう一つの妨げは、決裂を恥じて、なかったことにしてしまうことだ。振り返らなければ、決裂は痛みのまま終わり、次の糧にならない。
助けになるのは、交渉の前に留保値(ここより悪ければ降りる線)と代替案を用意しておくこと、そして交渉の後に、決裂もまとまりも含めて「あれで良かったか」を反実仮想で振り返ることである。もし別の代替案を持っていたら、もし降りる線を先に決めていたら——その問いが、次の準備を具体的にする。
最初の一歩は、次の単位に進む前に、過去の決裂か、あるいは後から悪かったと思う合意を一つ取り出し、そのとき手元にあった代替案と留保値に照らして、『あれで良かったか』を書き出してみること。相手を責める必要も、探る必要も、試す必要もない。自分の判断を、代替案と留保値という物差しで、静かに振り返るだけでよい。
次の単位は 476「もめ事を話し合いで収めるには?」——決裂やこじれの先で、こじれてしまったもめ事を、話し合いで収める段へ進む。
- 決裂とは交渉がまとまらず合意に至らないまま終わること。俗説はこれを失敗と呼ぶが手がかりはBATNA(Best Alternative To a Negotiated Agreement=決裂時に代わりに取れる最善の道)と留保値(これ以下なら合意しないと決めておく線)。合意しないことが最善の場合があり、交渉は打ち負かす競技でなく合意の質を上げる共同作業。この単位は必ず合意すべきとも必ず勝てるとも保証しない
- BrettとPinkley・Jackofsky 1996『Alternatives to Having a BATNA in Dyadic Negotiation』(International Journal of Conflict Management 7(2):121-138)は代替案・目標水準・自己効力感が交渉の結果を左右すると示した。良い代替案があれば悪い条件を断って決裂を選べ、代替案が無いと思い込むと決裂を恐れてどんな条件でも飲んでしまう。失敗と呼ぶべきはBATNAより悪い合意を決裂回避のために受けることである
- Pinkley 1995『Impact of knowledge regarding alternatives to settlement』(Journal of Applied Psychology 80(3):403-417)は代替案についての知識が交渉力そのものを左右すると示した。ここから、決裂そのものは失敗ではなく、決裂して代替案に進むほうが悪い合意にサインするより良い場面が確かにあると言える。まとまったことはそれだけでは成功ではない
- WhiteとNeale 1994『The Role of Negotiator Aspirations and Settlement Expectancies in Bargaining Outcomes』(OBHDP 57(2):303-317)は交渉者の目標水準(どこを目指すか)と留保値(どこで降りるか)が合意の可否と質の両方を決めると示した。留保値を持てばその線より悪い条件に降りると判断でき、線が無いと流れや空気に押されて飲むべきでない条件を飲む。これらの実証の多くは模擬交渉である
- TuncelとMislin・Kesebir・Pinkley 2016『Agreement Attraction and Impasse Aversion』(Psychological Science 27(3):312-321)は人に決裂を避けたい強い傾向(impasse aversion)があり合意なしより悪い合意を選んでしまうと示した。決裂=失敗という思い込みがこの傾向を強めるため、決裂を最初からあり得る選択肢の一つとして持ち、降りることを自分に許しておかないと留保値はただの飾りになる
- 決裂には振り返れば次の交渉の糧になる値打ちがある。ThompsonとDeHarpport 1994『Social Judgment, Feedback, and Interpersonal Learning in Negotiation』(OBHDP 58(3):327-345)は交渉後にフィードバックを得て振り返る人が対人的な学習を進めると示した。決裂したときこそ何が足りなかったかを振り返る材料が揃い、まとまった交渉より学びが大きいことさえある
- KrayとGalinsky・Markman 2009『Counterfactual structure and learning from experience in negotiations』(Journal of Experimental Social Psychology 45(4):979-982)は「もしあのとき違う手を打っていたら」という反実仮想の振り返りが経験からの学習を促すと示した(アンカリング研究でなく反実仮想からの学習の別テーマ)。決裂を隠さず記録して振り返ることが決裂を次につなげることで、失敗はBATNAより悪い合意のほうであって決裂そのものではない
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 交渉が決裂したら、それは失敗だ。何としても合意にこぎつけるべきだ | 決裂そのものは失敗ではない。Brettら1996は代替案・目標水準・自己効力感が結果を左右すると示し、Pinkley 1995は代替案の知識が交渉力を左右すると示した。良い代替案があれば悪い条件を断って決裂を選べる。失敗と呼ぶべきは、BATNA(決裂時に取れる最善の道)より悪い合意を、決裂を避けたいがために受けてしまうことであり、まとまったことはそれだけでは成功ではない |
| 交渉はその場の流れで進めればよく、どこで降りるかを先に決めておく必要はない | White & Neale 1994は、目標水準(どこを目指すか)と留保値(どこで降りるか)が合意の可否と質の両方を決めると示した。留保値を先に持っておくとその線より悪い条件に降りると判断でき、線が無いと流れや空気に押されて飲むべきでない条件を飲む。さらにTuncelら2016は人に決裂を避けたい傾向がありそのために悪い合意を選ぶと示した。降りることを自分に許しておかないと、留保値はただの飾りになる |
| 決裂は恥ずかしいことだから、早く忘れて次に進むのがよい | 決裂は振り返れば次の糧になる。Thompson & DeHarpport 1994は交渉後にフィードバックを得て振り返る人が学習を進めると示し、Krayら2009は「もしあのとき違う手を打っていたら」という反実仮想の振り返りが学習を促すと示した(アンカリングでなく反実仮想からの学習の研究)。決裂したときこそ何が足りなかったかを振り返る材料が揃い、決裂を隠さず記録して振り返ることが次の準備を具体的にする |
皮肉なのは、「決裂だけは避けたい」と最も強く思うときほど、留保値より悪い条件を、自分から進んで受けてしまうことである。テーブルを立つ勇気が無いと知られれば、こちらの降りる線は、相手にとってあってないようなものになる。決裂は、たしかに痛い——だが、BATNAより悪い合意にサインした痛みは、決裂の痛みより長く尾を引く。そして、決裂を恥じて振り返らずに閉じてしまえば、その痛みからは何も学べない。まとまらなかった交渉は、失敗ではなく、次のためのいちばん濃い教材かもしれない——もし、なかったことにせず、開いて眺める勇気があれば。
Q1. 手がかりは ____(決裂したとき代わりに取れる最善の道)と ____(これ以下なら合意しないと決めておく線)である。失敗と呼ぶべきは決裂そのものではなく、____ より悪い合意を決裂回避のために受けてしまうことである。穴埋め
Q2. White & Neale 1994が示した「目標水準」と「留保値」の役割を述べ、留保値を先に決めておくと何が変わるかを説明せよ。一問一答
Q3. Tuncelら2016が示した「impasse aversion(決裂を避けたい傾向)」と、この単位が言う「決裂=失敗」の思い込みの関係として正しいものはどれか。選択
Q4. 「決裂も振り返れば次の糧になる」とはどういうことか。Thompson & DeHarpport 1994とKrayら2009に触れて述べよ。Krayら2009がどんな研究かの注記も含めること。一問一答
Q5. 決裂と学習をめぐる研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Krayらが反実仮想からの学習を示す(イ)White & Nealeが目標水準と留保値の役割を示す(ウ)Tuncelらが決裂回避で悪い合意を選ぶと示す(エ)Pinkleyが代替案の知識が交渉力を左右すると示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、自分が過去に経験した決裂(まとまらずに終わった話し合い)か、あるいは後から「あれは飲むべきでなかった」と思う合意を一つ思い出す。それについて、(1)そのとき手元にあった代替案(合意しなければ取れた別の道)は何だったか、(2)自分の留保値(ここより悪ければ降りる線)を、当時どこに置いていたか(置いていなかったなら、いま思えばどこに置くべきだったか)を書き出す。そのうえで、(3)「もし別の代替案を持っていたら」「もし降りる線を先に決めていたら」という反実仮想で、あの判断は良かったかを振り返る。相手を責めたり試したりする必要はなく、自分の判断を代替案と留保値という物差しで静かに振り返って完結させる。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
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- Brett J.F., Pinkley R.L., Jackofsky E.F. (1996) ‘Alternatives to Having a BATNA in Dyadic Negotiation: The Influence of Goals, Self-Efficacy, and Alternatives on Negotiated Outcomes’, International Journal of Conflict Management 7(2):121-138 — doi.org
- Pinkley R.L. (1995) ‘Impact of knowledge regarding alternatives to settlement in dyadic negotiations: Whose knowledge counts?’, Journal of Applied Psychology 80(3):403-417 — doi.org
- White S.B., Neale M.A. (1994) ‘The Role of Negotiator Aspirations and Settlement Expectancies in Bargaining Outcomes’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 57(2):303-317 — doi.org
- Tuncel E., Mislin A., Kesebir S., Pinkley R.L. (2016) ‘Agreement Attraction and Impasse Aversion: Reasons for Selecting a Poor Deal Over No Deal at All’, Psychological Science 27(3):312-321 — doi.org
- Thompson L., DeHarpport T. (1994) ‘Social Judgment, Feedback, and Interpersonal Learning in Negotiation’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 58(3):327-345 — doi.org
- Kray L.J., Galinsky A.D., Markman K.D. (2009) ‘Counterfactual structure and learning from experience in negotiations’, Journal of Experimental Social Psychology 45(4):979-982 — doi.org