「文書に落とせば終わり」——だが紙は、悪い合意を良い合意に変える魔法ではない
いちばん急いで「文書に落として終わらせたい」と思うときほど、その合意が、合意しない場合より本当に良いのかを、いちばん確かめていない。決裂を避けたい気持ちは条件を見る目を曇らせ、サインという儀式が、悪い合意すら正式なものに見せてしまう。そして、どれほど精密に書き尽くしても、想定外の場面で最後にものを言うのは、紙ではなく、その紙が乗っている関係のほうだ。
合意を文書に落とすとは、何を指すのか
前の単位で、その場で合意を確かめ合う技術が手に入った。それを、確かめ合った合意を、こんどは文書という形に残す段へ進める。
まず言葉をほどく。文書に落とすとは、口で確かめた合意を、書面や記録として残し、後から双方が参照できる形にすることである。俗説は言う——「文書に落とせば、それで終わり」。だが、この単位が見るのは、その「終わり」がどこまで本当かだ。手がかりになるのが、合意バイアス(agreement bias)——交渉のテーブルについた人が、「合意すること」自体を目的化してしまい、合意しないほうがましな場面でも、つい合意に流れてしまう傾向である。文書は、この流れを固定してしまう危うさを持つ。交渉のテーブルにつくのは交渉担当だけではない。取引条件を詰める代表も、外注の契約を自分で結ぶ個人も、身内と取り決めを交わす人も、ここに立つ。言うことは三つ。文書化とは何を指すのか、文書に落とすとどこまで「終わり」と確かめられているのか、その範囲の外で何が起きるか。あらかじめ断っておく——この単位は、必ず合意すべきだとも、必ずwin-winになるとも保証しない。 合意書の文例を丸写しで渡すこともしないし、個別の契約が適法かの判断もしない。
「文書に落とせば終わり」の裏——合意自体が目的になる
まず、合意へ流される力から。TuncelとMislin、Kesebir、Pinkleyが2016年に『Agreement Attraction and Impasse Aversion』(Psychological Science 27(3):312-321) で示したのは、人が「合意なし」より悪い合意を、それでも選んでしまうということだった。合意そのものに引力があり、決裂を避けたいという気持ちが、条件の良し悪しの判断を曇らせる。
さらに、CohenとLeonardelli、Thompsonが2014年に『Avoiding the Agreement Trap』(Negotiation and Conflict Management Research 7(4):232-242) で示したのは、合意すべきでない場面——双方にとって「合意しないほうがまし」な領域——でも、人は合意してしまう罠があること、そして興味深いことに、一人より複数(チーム)で臨むほうが、「いつテーブルを立つべきか」を見極めやすい場合がある、ということだった。一人だと、その場の空気や、まとめたいという焦りに引きずられやすい。相談できる相手が横にいると、「これは受けないほうがいい」と言える確率が上がる。文書化を交渉のゴールに据えると、この合意バイアスに拍車がかかる。「書面にサインする」ことが目的になれば、その書面の中身が「合意なし」より本当に良いのかを問う目が、鈍る。締め切りが迫るほど、この鈍りは強くなる。
no-dealと比べる——「合意しない」という選択を手元に持つ
では、合意すべきかどうかは、何で決まるのか。答えは、合意しなかった場合(no-deal)と比べて、なお良いかである。手元に別の道があれば、悪い合意を断れる。別の道が無いと思い込むと、どんな条件でも飲んでしまう。だから、合意できたかどうかではなく、合意しない場合と並べてなお良いかで測る——この物差しが、文書化の前にまず要る。
O'ConnorとArnoldが2001年に『Distributive Spirals』(Organizational Behavior and Human Decision Processes 84(1):148-176) で示したのは、交渉が悪循環に陥る力学——一度こじれると引くに引けなくなる渦——であり、そこから抜ける鍵の一つが、「合意しない」という選択を手元に持っておくことだった。ここでも棚の見方が効く——これらの実証の多くは模擬交渉であり、あなたの目の前の一件にそのまま当てはまるとは限らない。だが、「合意できたか」ではなく「合意しない場合と比べてなお良いか」で測る、という物差しそのものは、どんな交渉にも持ち込める。文書に落とす前に問うべきは、「この合意は、合意しない場合と比べて、本当に良いか」である。この問いを飛ばして文書化を急ぐと、悪い合意を、わざわざ紙に固めてしまう。
文書は、関係の上にしか立たない
文書化には、もう一つの限界がある。書面だけで、関係を統べることはできない。 Lumineauが2017年に『How Contracts Influence Trust and Distrust』(Journal of Management 43(5):1553-1577) でまとめたのは、契約が信頼を支えることも、逆に不信を招くこともあり、文書と関係は、どちらかがどちらかを代替するのではなく、互いに作用し合う、ということだった。
契約書は、細部を詰め、約束を明確にする一方で、それ自体が「相手を信じていない」という信号にもなりうる。そして、どんなに精密な文書も、想定外の事態のすべてを書き尽くすことはできない。書かれていない場面で最後にものを言うのは、その文書が乗っている関係の質——これまで積んできた信頼だ。だから、文書は関係の上に立つのであって、関係の代わりにはならない。文書に落とすことは、関係を手入れする作業を、免除してくれない。
ここで、文書の役割そのものを、もう一段広げておきたい。SchepkerとOh、Martynov、Poppoが2014年に『The Many Futures of Contracts』(Journal of Management 40(1):193-225) で論じたのは、契約が相手を縛って守る(防衛)ためだけの道具ではなく、これから起きる想定外に双方で対応していくための、調整と適応の枠組みでもある、ということだった(これは組織間の契約を扱った研究で、共著のPoppoが別に著したPoppo & Zenger 2002とは別の作品である)。この見立ては、組織どうしの契約から来ているが、小さな商いや個人の間でも変わらない。文書を「悪用を封じる盾」としてだけ見ると、つい細部を縛る方向に傾く。だが、これから一緒に進めるための「地図」として見れば、書くべきは、起きうる変化にどう向き合うかの段取りのほうだ。身内や長い付き合いの相手ほど、細かく書いた紙より、この地図を一緒に読み続ける関係のほうが、いざというときに効く。文書は、その関係を言葉にして確認する道具ではあっても、関係そのものを肩代わりはしない。だからこそ、文書を作ったあとも、関係のほうを放置してよいことにはならない。
拘束を強めると、信頼が揺らぐことも
この「文書と信頼」の緊張は、拘束を強めるほど強まる。MalhotraとMurnighanが2002年に『The Effects of Contracts on Interpersonal Trust』(Administrative Science Quarterly 47(3):534-559) で示したように、拘束的な契約は、当事者間の信頼をかえって損なうことがある。
前の単位では、これを口頭の言質を強く縛る副作用として見た。文書化の段では、同じ力学が「契約の厳しさ」として現れる。すべてを細かく縛る契約は、守らせる力を上げる一方で、「この人は縛らないと守らない」という前提を関係の底に置く。約束が守られても、それは信頼の証ではなく拘束の結果と受け取られ、自発的な協力が育ちにくくなる。だから文書化では、「何を書くか」と同じくらい、「どこまで縛るか」の加減が問われる。書き尽くすことが、いつも最善とはかぎらない。
時間・変化:2001年から2017年へ
順に置く。2001年、O'ConnorとArnoldが、交渉が悪循環に陥る力学と「合意しない」選択の重みを示す。2002年、MalhotraとMurnighanが拘束的契約の信頼への副作用を示し、2014年には、CohenとLeonardelli、Thompsonが合意すべきでない場面で合意する罠を、SchepkerとOhらが契約が調整と適応の道具でもあることを、それぞれ示した。2016年、Tuncelらが「合意なし」より悪い合意を選ぶ引力を、2017年、Lumineauが契約と信頼の相互作用を総括した。
この間に確からしくなったのは、「文書に落とせば終わり」という約束ではない。確からしくなったのは、合意自体が目的化して悪い合意に流されやすく、合意すべきかはno-dealとの比較で決まり、そして文書は関係の上にしか立たない、という限界の側の事実である。文書化は、それ自体がゴールなのではなく、良い合意をあとに残すための手段にすぎない。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「書面にサインする」ことをゴールにしてしまい、その中身が「合意なし」より本当に良いのかを問わなくなることである。文書化は、悪い合意も等しく紙に固めてしまう。もう一つの妨げは、文書さえ作れば関係の手入れは要らないと考えることだ。書かれていない場面で効くのは、関係の質のほうである。
助けになるのは、文書に落とす前に、その合意を、合意しなかった場合(no-deal)と並べて、なお良いかを確かめること、そして書ききれない部分を、関係で担保できるかを見ておくことである。全部を縛ろうとせず、要になる約束と、関係に委ねてよい部分を、意識して分ける。すべてを紙に押し込もうとするほど、かえって関係が痩せることがあるからだ。
最初の一歩は、次の単位に進む前に、自分がいま結ぼうとしている(または最近結んだ)合意を一つ取り出し、合意しない場合と比べてなお良いか、そして文書に書ききれない部分を関係で担保できるかを、書き出してみること。相手を試す必要はない。自分の合意の中身を、no-dealと関係という二つの物差しで点検するだけでよい。
次の単位は 475「決裂を次につなげるには?」——文書にするか否かの手前で、そもそも合意しないという選択そのものの値打ちへ進む。
- 文書に落とすとは口で確かめた合意を書面や記録として残し後から双方が参照できる形にすること。俗説は文書に落とせば終わりと言うが、手がかりは合意バイアス(agreement bias=合意すること自体を目的化し合意しないほうがましな場面でも合意に流れる傾向)。この単位は必ず合意すべきともwin-winとも保証せず、合意書の文例丸写しも個別の契約適法判断もしない
- TuncelとMislin・Kesebir・Pinkley 2016『Agreement Attraction and Impasse Aversion』(Psychological Science 27(3):312-321)は人が合意なしより悪い合意をそれでも選んでしまうことを示した。合意そのものに引力があり、決裂を避けたい気持ちが条件の良し悪しの判断を曇らせる。文書化をゴールに据えるとこの合意バイアスに拍車がかかる
- CohenとLeonardelli・Thompson 2014『Avoiding the Agreement Trap』(Negotiation and Conflict Management Research 7(4):232-242)は双方にとって合意しないほうがましな領域(負の交渉ゾーン)でも人は合意してしまう罠があり、一人より複数(チーム)のほうがいつテーブルを立つべきかを見極めやすい場合があると示した。書面にサインが目的になると中身がno-dealより良いか問う目が鈍る
- 文書の役割は防衛だけではない。SchepkerとOh・Martynov・Poppo 2014『The Many Futures of Contracts: Moving Beyond Structure and Safeguarding to Coordination and Adaptation』(Journal of Management 40(1):193-225)は、契約が相手を縛って守るためだけの道具ではなく、これから起きる想定外に双方で対応していくための調整と適応の枠組みでもあると論じた(組織間契約の研究で、共著のPoppoが別に著したPoppo & Zenger 2002とは別作品)。盾としてだけ見ると細部を縛る方向に傾くが、地図として見れば書くべきは変化への段取りである
- O'ConnorとArnold 2001『Distributive Spirals』(OBHDP 84(1):148-176)は交渉が一度こじれると引くに引けなくなる悪循環の力学を示し、そこから抜ける鍵の一つが合意しないという選択を手元に持つことだった。文書に落とす前に問うべきはこの合意はno-dealと比べて本当に良いかで、この問いを飛ばして急ぐと悪い合意をわざわざ紙に固めてしまう
- 文書は関係の上にしか立たない。Lumineau 2017『How Contracts Influence Trust and Distrust』(Journal of Management 43(5):1553-1577)は契約が信頼を支えも不信を招きもし、文書と関係はどちらかが代替するのでなく互いに作用し合うと総括した。契約書は約束を明確にする一方で相手を信じていない信号にもなり、書かれていない場面では文書が乗る関係の質が最後にものを言う
- MalhotraとMurnighan 2002『The Effects of Contracts on Interpersonal Trust』(Administrative Science Quarterly 47(3):534-559)は拘束的な契約が当事者間の信頼をかえって損なうことがあると示した。すべてを細かく縛る契約は守らせる力を上げる一方で縛らないと守らない相手だという前提を関係の底に置く。だから文書化では何を書くかと同じくらいどこまで縛るかの加減が問われ、書き尽くすことがいつも最善とは限らない
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 合意ができたら文書に落とす、そこまでやれば交渉は終わりだ | 文書化はゴールではない。Tuncelら2016は人が「合意なし」より悪い合意をそれでも選ぶこと(合意への引力)を、Cohenら2014は合意すべきでない場面でも合意する罠を示した。書面にサインすることが目的になると、その中身がno-dealより本当に良いのかを問う目が鈍る。文書化は悪い合意も等しく紙に固めてしまうため、まず問うべきは合意しない場合と比べてなお良いかである |
| きちんとした契約書さえ作れば、あとは関係を気にしなくても約束は守られる | 文書は関係の上にしか立たない。Lumineau 2017は契約が信頼を支えも不信を招きもし、文書と関係がどちらかを代替するのでなく互いに作用し合うと総括した。どんなに精密な文書も想定外の場面を書き尽くせず、書かれていない場面で最後にものを言うのは文書が乗る関係の質である。文書に落とすことは、関係を手入れする作業を免除してくれない |
| 契約は細かく書き込んで、相手をきっちり縛るほど安全だ | 書き尽くすことがいつも最善とは限らない。Malhotra & Murnighan 2002は拘束的な契約が当事者間の信頼をかえって損なうことがあると示した。すべてを細かく縛る契約は守らせる力を上げる一方で「縛らないと守らない相手だ」という前提を関係の底に置き、自発的な協力が育ちにくくなる。だから文書化では何を書くかと同じくらい、どこまで縛るか(要になる約束と関係に委ねる部分の切り分け)の加減が問われる |
皮肉なのは、いちばん急いで「文書に落として終わらせたい」と思うときほど、その合意が、合意しない場合より本当に良いのかを、いちばん確かめていないことである。決裂を避けたい気持ちは、条件の良し悪しを見る目を曇らせ、サインという儀式が、悪い合意すら正式なものに見せてしまう。そして、どれほど精密に書き尽くしても、想定外の場面で最後にものを言うのは、紙ではなく、その紙が乗っている関係のほうだ。文書は、良い合意を残すための道具であって、悪い合意を良い合意に変える魔法ではない。落とすべきは、まず良い合意で、紙はその後からついてくる。
Q1. この単位の手がかりである「合意バイアス(agreement bias)」とは何か。Tuncelら2016とCohenら2014が示したことに触れ、文書化と結びつくとなぜ危ういのかを述べよ。一問一答
Q2. 合意すべきかは、合意しなかった場合(____)と比べてなお良いかで決まる。O'Connor & Arnold 2001は、交渉が一度こじれると引くに引けなくなる ____ から抜ける鍵の一つが、「____」という選択を手元に持つことだと示した。穴埋め
Q3. Lumineau 2017が示した「契約と関係(信頼)」の関係として、この単位の説明に合うものはどれか。選択
Q4. Malhotra & Murnighan 2002を踏まえ、文書化で「書き尽くすことがいつも最善とは限らない」と言える理由を述べよ。前の単位(言質)との違いにも触れよ。一問一答
Q5. 合意の文書化をめぐる研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Lumineauが契約と信頼の相互作用を総括する(イ)O'Connor & Arnoldがこじれの悪循環と「合意しない」選択の重みを示す(ウ)Malhotra & Murnighanが拘束的契約の信頼への副作用を示す(エ)Schepkerらが契約が調整と適応の道具でもあると示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、自分がいま結ぼうとしている(または最近結んだ)合意を一つ選ぶ。それについて、二つを書き出す。(1)この合意は、合意しなかった場合(no-deal=この話をまとめず、別の道を選んだ場合)と比べて、本当に良いか。良いと言える根拠と、手元の代替案を書く。(2)この合意のうち、文書に書ききれない部分(想定外の場面での対応など)を、相手との関係で担保できそうか。要になる約束と、関係に委ねる部分を分けて書く。必ず合意すべきという結論を出す必要はなく、no-dealのほうが良いと気づくのも収穫である。相手を試す必要はなく、自分の合意の中身を二つの物差しで点検するだけで完結させる。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Tuncel E., Mislin A., Kesebir S., Pinkley R.L. (2016) ‘Agreement Attraction and Impasse Aversion: Reasons for Selecting a Poor Deal Over No Deal at All’, Psychological Science 27(3):312-321 — doi.org
- Cohen T.R., Leonardelli G.J., Thompson L. (2014) ‘Avoiding the Agreement Trap: Teams Facilitate Impasse in Negotiations with Negative Bargaining Zones’, Negotiation and Conflict Management Research 7(4):232-242 — doi.org
- Schepker D.J., Oh W.-Y., Martynov A., Poppo L. (2014) ‘The Many Futures of Contracts: Moving Beyond Structure and Safeguarding to Coordination and Adaptation’, Journal of Management 40(1):193-225 — doi.org
- O’Connor K.M., Arnold J.A. (2001) ‘Distributive Spirals: Negotiation Impasses and the Moderating Role of Disputant Self-Efficacy’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 84(1):148-176 — doi.org
- Lumineau F. (2017) ‘How Contracts Influence Trust and Distrust’, Journal of Management 43(5):1553-1577 — doi.org
- Malhotra D., Murnighan J.K. (2002) ‘The Effects of Contracts on Interpersonal Trust’, Administrative Science Quarterly 47(3):534-559 — doi.org