「パイは広げられる」——それは実証があるが、条件が要り、『必ずwin-win』は創造と主張の緊張を無視した神話だ
パイは広げられる、だから交渉はwin-winにできる、と教わる。前半は本当で、後半は言い過ぎだ。争点を束ねて優先順位の違いを交換すれば、単純な妥協よりパイは確かに広がる——それには実証がある。だが広がるには条件が要り、しかも価値を創造することと自分の取り分を主張することは緊張関係にある。win-winを強く目指すほど、分配の場面で不利になりうる。広げられることと、必ず双方が幸せになることは、別だ。
パイは広げられる——ただし「必ずwin-win」ではない
前の単位で、立場でなく、その裏にある利害で話す構えが手に入った。ここからは、その利害を、条件の組み合わせに変えていく話に進める。ここで段はひとつ進んで、準備を整える青の段から、実際の設計と対話をおこなう緑の段に入る。
用語をほどく。交渉の見方は、大きく二つに分けられる。パイを「どう分けるか」を争う分配型(ぶんぱいがた=取り分を奪い合う見方)と、パイそのものを「どう広げるか」を探る統合型(とうごうがた=双方の得を増やす見方)だ。統合型の代表的な手が、logrolling(ログローリング=争点を一つに絞らず複数を束ね、互いに優先順位の低い争点を譲り合って、優先順位の高い争点を取る)である。よく聞くのは、「パイは広げられる」——だから交渉は win-win にできる、という言い方だ。
この単位が示すのは、前半は本当で、後半は言い過ぎだということである。パイは確かに広げられる——それには実証がある。だが「必ず win-win」は、分配という現実を無視した神話だ。なお、この棚は相手を打ち負かす競技の攻略本ではない。ここで扱うのは、合意の質を上げる共同作業としての、条件の組み立て方である。
この棚を貫く見方が、ここでも効く。教えの由緒と、目の前の相手への効き目は、別物である。 win-win という言葉は、交渉の名著から広まり、いまでは合言葉のように使われる。だが、言葉が広く行きわたっていることと、それがどんな相手にも効くことは、別の話だ。この単位は、その合言葉を、統合型交渉を実際に測った研究に照らして、使える部分と、言い過ぎな部分に、丁寧に切り分ける。合言葉をそのまま信じるのでも、頭から否定するのでもなく、どこまでが確かめられているかを見る。
パイは、確かに広げられる——logrolling という手
まず、良い知らせから。パイを広げるのは、精神論ではなく、実証のある手だ。Froman と Cohen が1970年に行った古典的な実験は、争点を一つずつ単純に妥協していくより、複数の争点を束ねて、優先順位の違いを交換する——logrolling——ほうが、双方にとって高い成果を生むことを示した。
なぜ、そうなるのか。二人が同じ争点を、等しく重く見ているとはかぎらないからだ。こちらが軽く見ている条件を、相手が重く見ているのなら、そこを譲って、こちらが重く見ている条件を取る。すると、両方が「大事なほうを取れた」状態になる。Weingart らが1993年に示したのも、争点をきちんと考慮に入れることが統合的な成果につながる、という向きだった。パイが広がるのは、根性でも譲り合いの美徳でもなく、優先順位の違いという、もともとある差を使うからである。だから、差が無ければ広がらない。
身近な例で考えると、腑に落ちる。外注の仕事を頼む場面を思い浮かべてほしい。こちらは、とにかく納期を早めてほしい——多少の値上げは飲む。相手は、値段はしっかり取りたいが、納期には少し融通がきく。ここで「値段だけ」を睨み合えば、譲るか譲らないかの押し合いにしかならない。だが、納期と値段を一緒のテーブルに載せれば、こちらは値段を少し譲って納期を取り、相手は納期を少し譲って値段を取る——両方が、自分にとって大事なほうを手に入れる。これがパイの広がる瞬間だ。魔法ではない。二人の「大事さの順番」が違うという、ただそれだけの事実を、使っているにすぎない。
ただし、広がるには条件が要る
ここで注意がいる。パイは、いつでも広がるわけではない。Olekalns と Smith が2003年に示したのは、交渉者の動機の向き——相手のことも考えるか、自分の取り分だけを見るか——が、どんな戦略を選ぶかを経て、統合的な成果につながる、ということだった。相手のことも考える構え(向社会的な動機)があるほど、優先順位を交換するような統合的な戦略が選ばれやすく、それが双方の得を増やす結果に結びつく。逆に、自分の取り分だけを見ていると、その戦略そのものが選択肢に上がってこない。
この二つが要る、という点が面白い。相手のことを一切考えなければ、優先順位を交換するという発想そのものが出てこない。かといって、何でもかんでも譲る人は、取るべきものまで手放してしまい、パイが広がる前に自分の取り分が消える。譲る気と、譲らない芯の、両方が要るのだ。これは、机上の理屈ではない。Pruitt と Lewis が1975年に行った古典的な実験は、二者間の交渉で統合的な解——双方の得を増やす合意——が実際にどう生まれるかを調べ、優先順位の交換によってそうした解がちゃんと作り出されることを、早くから示していた。そして Pruitt が1982年に整理したように、統合的な合意には複数の型があり、どの型が成立するかは条件で変わる。つまり logrolling は強力だが、「その場に持ち込めば自動でパイが広がる」魔法ではない。争点が本当に一つしかない交渉、優先順位に差がない交渉では、広げる余地そのものが小さい。
ここに、この単位の読者への含みがある。「広げられないパイもある」と、あらかじめ知っておくことだ。世の中には、値段だけが問題で、双方がそれを同じ重さで見ている、という交渉も実際にある。そういう場では、いくら統合型の心構えで臨んでも、パイは広がらない。にもかかわらず「工夫が足りないから広げられないのだ」と自分を責めると、話がこじれる。だから、まず見極める——この交渉は、争点が複数あって優先順位に差があるのか、それとも本当に値段一本の勝負なのか。広げられる交渉と、そうでない交渉を、取り違えないことが、無駄な力みを避ける第一歩になる。
「必ず win-win」は神話——創造と主張の緊張
そして、いちばん大事な値切りがここだ。「パイは広げられる」を、「だから交渉は必ず win-win にできる」と読み替えるのは、行き過ぎである。Foo らが2004年に示したのは、交渉には価値を「創造する(creating)」面と、価値を「主張する(claiming)」面があり、この二つは緊張関係にある、ということだ。
パイを広げること(創造)と、広がったパイのうち自分の取り分を確保すること(主張)は、別の動きである。そして、win-win を強く目指す——相手にいい顔をしすぎる——ほど、分配の場面で自分が不利になりうる。これは「交渉者のジレンマ」と呼ばれる。相手も同じことを考えているなら、こちらだけが創造に傾けば、主張の場面で持っていかれる。統合と分配は、どちらか一方だけを選べるものではなく、切り離せない両面だ。だからこの単位は、パッケージ設計を有効な道具として勧めはするが、「必ず win-win」という言葉は使わない。広げられることと、広げれば必ず双方が幸せになることは、別なのである。
誤解のないように付け加えておく。これは「創造など幻想だから、最初から取り合いに徹しろ」という話では、まったくない。パイを広げる努力には、確かな見返りがある——ただ、広げたあとには必ず分ける局面が来て、そこでは別の目配りが要る、というだけのことだ。腕のいい交渉者は、創造の顔と主張の顔を、場面に応じて使い分ける。片方の顔しか持たない人が、いちばん損をしやすい。win-win という言葉の心地よさに、この使い分けの必要を溶かしてしまわないことが肝心だ。
時間・変化:統合型交渉の研究
順に置く。1970年、Froman と Cohen が logrolling の古典実験を示す。1975年、Pruitt と Lewis が統合的な解の生まれ方を古典的な実験で示す。1982年、Pruitt が統合的合意の型を整理する。1993年、Weingart らが争点の考慮と統合の関係を示す。2003年、Olekalns と Smith が動機の向きが戦略選択を経て統合的成果に効くことを示し、2004年、Foo らが創造と主張の緊張を示した。
この半世紀で確からしくなったのは、「必ず win-win にできる」ではない。確からしくなったのは、パイは条件がそろえば広げられるが、創造と主張は緊張関係にあり、win-win を目指すほど分配で不利になりうる、という向きのほうである。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「パイは広げられる」を「必ず win-win にできる」と読み替える楽観だ。創造に傾きすぎると、主張の場面で取り分を失う。もうひとつの妨げは、争点を一つに絞ってしまうことである——争点が一つなら、優先順位を交換する余地が、そもそも無い。値段だけの勝負にした瞬間、パイは広げようがなくなる。
助けになるのは、相手の手の内を「探る」前に、まず自分の側で、争点を複数に分け、それぞれ自分にとっての優先順位を決めておくことだ。どの争点なら譲れて、どの争点は譲れないか。これが、パッケージ設計の出発点になる。
なぜ「相手を探る前に、自分から」なのか。相手の優先順位を読もうとする前に、自分の優先順位すらあいまいなことが、実に多いからだ。何を絶対に守りたくて、何なら手放せるのか——これが自分の中で整理できていないと、交渉の最中に、相手の一押しで、守るべきものまで譲ってしまう。逆に、自分の優先順位がはっきりしていれば、複数の争点を前にしても、どこで踏ん張り、どこで折れるかを、その場で慌てずに決められる。しかも、これは相手を実験台にする話ではない。自分の手元だけで、いますぐできる準備だ。相手の心を読む技術より先に、自分の順番を知る——地味だが、これがパッケージ設計のいちばん確かな土台になる。
最初の一歩は10分。自分の直近の、あるいはこれからの交渉を一つ取り、そこで話し合う争点を、一つではなくできるだけ複数書き出す(価格だけでなく、納期、量、支払い条件、期間、範囲、アフターの対応など)。次に、それぞれに自分にとっての優先順位(高・中・低)を付ける。相手の優先順位を当てに行く必要はない——これは自分のパッケージの棚卸しであって、相手を試す作業ではない。争点が一つしか出てこなければ、それ自体が「広げる余地の乏しい交渉だ」という発見になる。
次の単位は 470「感情的な相手と話すには?」——条件を組み立てる話から、その組み立てを揺さぶってくる感情を、どう読み、どう扱うのかへ進む。
- この棚の読者は自分で交渉のテーブルにつく人で、緑の段の入口として統合型交渉を扱う。交渉の見方は取り分を奪い合う分配型と双方の得を増やす統合型に分かれ、統合型の代表がlogrolling(複数の争点を束ね、互いに優先順位の低い争点を譲り合って優先順位の高い争点を取ること)である。俗説『パイは広げられる(だからwin-winにできる)』の、前半は本当で後半は言い過ぎだと見る
- パイが広げられること自体は実証がある。Froman & Cohen 1970の古典実験は、争点を一つずつ単純に妥協するより複数の争点を束ねて優先順位の違いを交換するlogrollingのほうが双方に高い成果を生むことを示し、Weingart ら 1993も争点をきちんと考慮することが統合的成果につながることを示した。パイが広がるのは優先順位の違いというもともとある差を使うからで、差が無ければ広がらない
- パイはいつでも広がるわけではない。Olekalns & Smith 2003は交渉者の動機の向きが戦略選択を経て統合的成果につながることを示した。相手のことも考える構え(向社会的動機)があるほど優先順位を交換する統合的な戦略が選ばれ、自分の取り分だけを見ているとその戦略が発想されない。かといって何でも譲る人は取るべきものまで手放す。譲る気と譲らない芯の両方が要る
- Pruitt 1982が整理したとおり統合的合意には複数の型があり、どの型が成立するかは条件で変わる。logrollingは強力だが、その場に持ち込めば自動でパイが広がる魔法ではなく、争点が一つしかない交渉や優先順位に差がない交渉では広げる余地そのものが小さい
- いちばん大事な値切りは、必ずwin-winは神話だということ。Foo ら 2004は、価値を創造する(creating)面と主張する(claiming)面が緊張関係にあることを示した。win-winを強く目指して相手にいい顔をしすぎるほど分配の場面で自分が不利になりうる(交渉者のジレンマ)。統合と分配は切り離せない両面で、Pruitt & Lewis 1975の古典実験が示したように統合的な解は条件がそろえば実際に生まれる
- 確からしくなったのは必ずwin-winにできるではなく、パイは条件がそろえば広げられるが創造と主張は緊張関係にありwin-winを目指すほど分配で不利になりうる、という向きである。だからパッケージ設計は有効な道具として勧めるが、必ずwin-winという言葉は使わない。広げられることと必ず双方が幸せになることは別である
- 最初の一歩は10分。自分の直近のあるいはこれからの交渉を一つ取り、話し合う争点を一つではなくできるだけ複数書き出し(価格だけでなく納期・量・支払い条件・期間・範囲など)、それぞれに自分にとっての優先順位(高・中・低)を付ける。相手の優先順位を当てに行く操作ではなく自分のパッケージの棚卸しで、相手を試す作業ではない。争点が一つしか出なければ広げる余地の乏しい交渉だという発見になる
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| パイは広げられるのだから、交渉は必ずwin-winにできる。双方が得をする合意を目指せば、みなが幸せになる | パイが広げられること自体は実証がある(Froman & Cohen 1970のlogrolling古典実験・Weingart ら 1993)。だが必ずwin-winは神話である。Foo ら 2004が示したように、価値を創造する面と主張する面は緊張関係にあり、win-winを強く目指して相手にいい顔をしすぎるほど、分配の場面で自分が不利になりうる(交渉者のジレンマ)。統合と分配は切り離せない両面で、広げられることと必ず双方が幸せになることは別である |
| 統合型のやり方をその場に持ち込みさえすれば、いつでもパイは広がる | パイはいつでも広がるわけではない。Olekalns & Smith 2003は、交渉者の動機の向き(相手のことも考えるか、自分の取り分だけを見るか)が、どんな戦略を選ぶかを経て統合的な成果につながることを示した。相手のことも考える構え(向社会的動機)があるほど優先順位を交換する統合的な戦略が選ばれやすく、自分の取り分だけを見ているとその戦略が発想されない。かといって何でも譲る人は取るべきものまで手放す。Pruitt 1982が整理したとおり統合的合意には複数の型があり条件で成立可否が変わる。争点が一つしかない交渉や優先順位に差がない交渉では、広げる余地そのものが小さい |
| パイを広げるには、まず相手の手の内や優先順位を探り出すのが先決だ | パイが広がるのは、優先順位の違いというもともとある差を使うからで、出発点は相手を探ることではなく、自分の側で争点を複数に分け、それぞれ自分にとっての優先順位を決めておくことである。どの争点なら譲れてどの争点は譲れないかを自分で把握しておくことがパッケージ設計の土台になる。相手の優先順位を当てに行く操作手順ではなく、自分のパッケージの棚卸しから始める。争点を一つに絞った瞬間、優先順位を交換する余地は消える |
皮肉なのは、win-winを最も熱心に掲げる交渉ほど、広がったパイの分け方の話になった瞬間に、掲げた側が手ぶらで帰りやすいことだ。創造にばかり心を配ると、主張の場面で足をすくわれる。パイは広げられる——それは本当だ。だが、広げれば必ず双方が幸せになる、という続きは、誰も実証していない。合意がまるく収まって見えるとき、たいていそれは、まだ分配の詰めが来ていないだけかもしれない。広げる手と、取り分を守る芯は、どちらも要る。片方だけを美徳にすると、もう片方で払わされる。
Q1. 『パイは広げられる、だからwin-winにできる』の、前半と後半をこの単位はどう評価したか。それぞれの根拠に触れて述べよ。一問一答
Q2. 複数の争点を束ね、互いに優先順位の低い争点を譲り合って高い争点を取ることを ____ という。Olekalns & Smith 2003は、交渉者の ____ の向き(相手も考えるか、自分の取り分だけか)が、____ の選択を経て統合的成果につながると示した。穴埋め
Q3. 『統合型のやり方を持ち込めばいつでもパイは広がる』という考えに対する、この単位の立場はどれか。選択
Q4. 『交渉者のジレンマ』とは何か。価値の創造と主張という言葉を使って説明せよ。一問一答
Q5. この単位が扱った統合型交渉の研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Olekalns と Smith が動機の向きが戦略を経て成果に効くと示す(イ)Froman と Cohen がlogrollingの古典実験を示す(ウ)Foo らが創造と主張の緊張を示す(エ)Pruitt が統合的合意の型を整理する並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、自分の直近の、あるいはこれからの交渉を一つ選ぶ(取引条件、家賃、外注費、身内との取り決めなど何でもよい)。その交渉で話し合う争点を、一つに絞らず、できるだけ複数書き出す(価格だけでなく、納期、量、支払い条件、期間、範囲、アフターの対応など)。それぞれに、自分にとっての優先順位(高・中・低)を付ける。相手の優先順位を当てに行ったり探ったりする必要はなく、自分のパッケージの棚卸しだけで完結させる。相手を試す作業ではない。最後に、書き出した争点の数と、優先順位が低い(=譲る余地のある)争点の数を書き添える。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Froman L.A., Cohen M.D. (1970) ‘Compromise and logroll: Comparing the efficiency of two bargaining processes’, Behavioral Science 15(2):180-183 — doi.org
- Weingart L.R., Bennett R.J., Brett J.M. (1993) ‘The impact of consideration of issues and motivational orientation on group negotiation process and outcome’, Journal of Applied Psychology 78(3):504-517 — doi.org
- Olekalns M., Smith P.L. (2003) ‘Testing the relationships among negotiators’ motivational orientations, strategy choices, and outcomes’, Journal of Experimental Social Psychology 39(2):101-117 — doi.org
- Pruitt D.G. (1982) ‘The Development of Integrative Agreements’, in Cooperation and Helping Behavior (Academic Press):35-59 — doi.org
- Foo M.D., Elfenbein H.A., Tan H.H., Aik V.C. (2004) ‘Emotional intelligence and negotiation: The tension between creating and claiming value’, International Journal of Conflict Management 15(4):411-429 — doi.org
- Pruitt D.G., Lewis S.A. (1975) ‘Development of integrative solutions in bilateral negotiation’, Journal of Personality and Social Psychology 31(4):621-633 — doi.org