期待値は、100人ぶんの平均であって、あなたの一生の平均ではない
期待値で考えろ、という助言はおおむね正しい。ただし、その平均が意味を持つのは、同じ賭けを何度も試せる場合だけだ。あなたは一人で、たいていの機会は1回きりである。
道具としては、たった2つの数字でできている
期待値思考という言い方はものものしいが、中身は単純だ。ひとつの選択肢について、起こる確率と、起きたときの結果の大きさを別々に書く。それを掛けて足す。以上である。
役に立つのは、この2つを分けて書かせるところにある。人は普段、確率と結果の大きさをひとつの感触に混ぜている。危なそう、いけそう、悪くなさそう——この感触は、めったに起きないが致命的なことと、よく起きるが小さいことを、同じ濃さで塗ってしまう。分けて書くと、それが分かれる。
機会の場面に置き直すと、書く欄は4つになる。起こる確率。うまくいったときの結果の大きさ。うまくいかなかったときの結果の大きさ。そして、この種類の機会が今後も巡ってくるかどうか。最後の欄が、この単位でいちばん効く。
なお、この単位は資産運用の話をしない。お金の増やし方は金運の棚の持ち場である。ここで借りるのは、賭けについての数学の言葉だけだ。
限界その1:集団の平均と、一人の時間の平均は一致しない
ここから、この道具そのものを値切る。期待値を最大にせよ、という指示には、めったに明示されない前提がある。同じ賭けを、たくさん試せること。同時に大勢でやるか、順番に何度もやるかは問わないが、とにかく平均が意味を持つだけの回数が要る。
Peters が2019年に Nature Physics に発表した論文が扱ったのは、この前提である。論文に出てくる例はこうだ——コインを投げ、表なら手持ちが1.5倍になり、裏なら0.6倍になる。1回あたりの手持ちの変化を確率で重みづけて足すと、プラス5%になる。集団を思い浮かべれば、確かに全体の合計は増えていく。
ところが、一人がこの賭けを何度も続けると、手持ちはおよそ1回あたり5%ずつ減っていく。掛け算で効く世界では、増えるときの倍率と減るときの倍率が対称ではないからだ。多数の人を横に並べたときの平均と、一人が時間をかけて経験する平均が食い違う。この食い違いは、エルゴード性の問題、つまり集団の平均と時間の平均がずれる性質として扱われる。Peters と Gell-Mann が2016年に Chaos に発表した論文は、この観点から賭けの評価そのものを組み直し、期待値は集団があるときにだけ意味を持つ量であって、一人の意思決定者は集団を持っていないと述べている。
人がこの違いに反応することも測られている。Meder らが2021年に PLOS Computational Biology に発表した実験では、18人の参加者が2日間、賭けを選び続けた。1日目は勝ち負けが一定額で増減する条件、2日目は手持ちに倍率がかかる条件である。同じ参加者の選び方が、条件によって動いた——一定額の日はほぼ直線的な評価、倍率の日は対数に近い、つまり大きな損を強く嫌う評価へ移った。どちらも、それぞれの条件で長期の伸びを最大にする向きである。
0に触れた枝は、その先が全部消える
掛け算の世界で厄介なのは、途中で手持ちが0になると、そこから先の枝が全部消えることだ。平均には、その消えた枝も「そこそこの値」として残り続ける。だが本人の時間の上では、続きがない。
これは金額に限った話ではない。挽回できない失敗、続けられなくなる健康、切れてしまう関係——結果の大きさの欄に、二度と戻れない種類のものが入っているかどうかは、確率よりも先に確かめたほうがいい。
限界その2:小さな賭けの断り方から、大きな賭けの行動を推し量ると壊れる
もうひとつの限界は、Rabin が2000年に Econometrica に発表した較正定理が示した。期待値と効用の枠組みでは、小さな賭けを断る人の行動から、大きな賭けについての行動が導ける。導いてみると、答えが壊れる。
論文の例はこうだ。米ドルで、どの資産水準からでも、50%で100ドル失い50%で110ドル得る賭けを断る人がいるとする。同じ枠組みを保つなら、その人は、50%で1,000ドル失い50%でいくら得られる賭けであっても断ることになる——得られる額がどれほど大きくてもだ。もう一段上げると、50%で1,000ドル失い50%で1,050ドル得る賭けを常に断る人は、50%で20,000ドル失う賭けを、上限のない得と引き換えでも断ることになる。
これは、人が不合理だという話ではない。小さな賭けへの慎重さを、そのまま拡大して大きな賭けの判断に使うと、明らかにおかしな結論が出る、という話である。目の前の小さな見送りの癖から、人生の大きな選択の話をしてはいけない。
期待値には、もともと有名な傷がある
そもそも期待値だけで決めるという方針は、300年近く前から穴が知られていた。Bernoulli が1738年に発表し、1954年に Econometrica に英訳が載った論文が扱ったのが、いわゆるサンクトペテルブルクの賭けである。
表が出るまでコインを投げ続け、n回目に初めて表が出たら賞金が倍々に増える。この賭けの期待値は、計算すると無限大になる。にもかかわらず、この賭けの参加料に大金を払う人はいない。Bernoulli の答えは、人が評価しているのは金額そのものではなく、その金額が自分にとって持つ意味の大きさだ、というものだった。
つまり期待値は、最初から「そのまま最大化する量」としては疑われていた。近ごろ流行りの言い方で言えば、この道具は昔から自分の限界を申告している。
1回きりか、繰り返しか、で答えが変わる
もうひとつ、実際の判断で効く区別がある。Redelmeier と Tversky が1992年に Psychological Science に発表した研究は、同じ賭けでも、1回だけ提示されると断る人が、繰り返し行うと言われると受けることを示した。さらに、医師が一人の患者について選ぶ治療と、同じ状態の患者の集団について選ぶ治療が食い違うことも報告している。
だから、目の前の選択肢について最初に決めるべきは確率でも金額でもない。これは1回きりか、それとも繰り返せるのか、である。繰り返せるなら、平均は味方になる。1回きりなら、平均は他人ごとの数字だ。
そして、たいていの機会は、その中間にある。同じ会社からの誘いは二度と来ないかもしれないが、誘いというもの自体は今年あと何回か来る。だから欄には「この機会が」ではなく「この種類の機会が、今年あと何回来そうか」を書く。ゼロと書いたなら、期待値の計算はいったん閉じて、失っても続けられるかどうかだけを見ればいい。
見つからなかった数字のこと
この単位のもとになった資料には、期待値で考える人は長期の成果が1.3倍から2.1倍になる、という数字が載っていた。出どころを探した。エルゴード性を扱った物理・経済の論文と、その引用文献、意思決定の実験研究をたどったが、この形の数値に対応する一次情報にはたどり着けなかった。存在しないとは断定しない。ただし、この単位では使わない。
時間・変化:数字を置いた直後に起きること
確率と結果を数字で書くと、最初に起きるのは安心ではない。だいたい、居心地の悪さである。5割ですね、と書いた瞬間に、それが本当に5割なのか誰も保証してくれないことに気づくからだ。
次に起きるのは、数字の修正だ。書いた確率を、翌日には別の数字に直したくなる。これは失敗ではない。むしろ、頭の中にあったときには決して起きなかった修正である。感触は修正できないが、数字は修正できる。
数日たつと、確率の桁が落ち着いてくる。1割か、5割か、9割か。この三段階まで来れば十分だ。小数点以下の精度は、この用途にはいらない。
そして、繰り返せるかどうかの欄が効き始める。同じ種類の機会が今年あと何回来そうかを書く欄である。回数が書けるなら平均の話ができ、書けないなら、平均の話はやめて、失っても続けられるかどうかだけを見る。この道具は、この棚の他の道具と掛け算で効く。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げの筆頭は、数字を置くと決めた気になってしまうことだ。確率も結果も、置いた本人の見積もりでしかない。桁を間違えていないかを確かめる以上の意味を持たせないほうがいい。
第2の妨げは、大きな数字のほうが正しく見えることである。期待値の計算は、まれで巨大な結果に引きずられる。サンクトペテルブルクの賭けの期待値は無限大で、しかも誰も払わない。
標本の偏りを断っておく。この単位の根拠は、理論的な議論と、参加者18人規模の実験室研究、そして米欧の研究者による思考実験に偏っている。実験の金額は米ドルで、日本の生活の感覚にそのまま重なる保証はない。国や年でも、機会の巡ってくる頻度は違う。数字は、向きと桁だけ借りるのが誠実な使い方である。
助けになるのは、確率を3段階で書くことだ。1割・5割・9割。細かくすると、書けなくなって、結局は感触に戻る。
最初の一歩は5分。いま迷っている選択肢を1つ選び、起こる確率と、起きたときの結果の大きさを、それぞれ1つの数字で書く。そのあと、その結果が二度と戻れない種類かどうかを、はい・いいえで1行だけ足す。
次の単位は 152「準備状態」——機会が来た瞬間に、どれだけ速く応答できるかを扱う道具だ。順に登る段ではなく、同じ引き出しに並んでいる隣の道具として使ってほしい。
- 期待値思考の中身は2つの数字だけ——起こる確率と、起きたときの結果の大きさ。役に立つのは、普段ひとつの感触に混ざっているこの2つを、別々の欄に書かせる点にある
- Peters 2019(Nature Physics 15(12):1216-1221)の例では、表なら手持ちが1.5倍、裏なら0.6倍になる賭けの1回あたりの期待変化はプラス5%だが、一人が繰り返した場合の時間平均の成長率は負になり、およそ1回あたり5%ずつ目減りする
- Peters & Gell-Mann 2016(Chaos 26(2):023103)は、期待値は集団が存在する場合にのみ意味を持つ量であり、個々の意思決定者は集団を持たないと論じ、賭けの評価を時間平均の成長率で組み直した
- Meder et al. 2021(PLOS Computational Biology 17(9):e1009217)では、18人が2日間、一定額で増減する条件と手持ちに倍率がかかる条件で賭けを選び、同じ参加者の評価がほぼ直線的なものから対数に近いものへ移った。どちらもその条件で長期の伸びを最大にする向きである
- Rabin 2000(Econometrica 68(5):1281-1292)の較正定理:どの資産水準でも50対50で100ドル損・110ドル得の賭けを断る人は、同じ枠組みでは50対50で1,000ドル損の賭けを、得がいくらであっても断ることになる。小さな慎重さを拡大して大きな判断に使うと結論が壊れる
- Bernoulli 1738/1954(Econometrica 22(1):23-36)のサンクトペテルブルクの賭けは、期待値が無限大になるのに誰も大金を払わない。期待値をそのまま最大化する方針の穴は、300年近く前から知られている
- Redelmeier & Tversky 1992(Psychological Science 3(3):191-193)は、同じ賭けでも1回だけの提示では断り、繰り返せると言われると受ける場合があること、医師が個々の患者と患者群で異なる治療を選ぶことを示した。最初に決めるべきは、1回きりか繰り返せるかである
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 期待値がプラスの選択肢を選び続ければ、長い目で見て得をする | それが成り立つのは、同じ賭けを十分な回数試せる場合である。手持ちに倍率がかかる形の賭けでは、1回あたりの期待変化がプラス5%でも、一人が続けたときの成長率は負になり、およそ1回あたり5%ずつ減る。集団の平均と一人の時間の平均は一致しない。だから最初に確かめるのは確率ではなく、これが1回きりか、繰り返せるかである |
| 小さな賭けでの慎重さは、大きな選択でも同じように働かせればよい | Rabin の較正定理では、どの資産水準でも50対50で100ドル損・110ドル得の賭けを断る人は、同じ枠組みの下では50対50で1,000ドル損の賭けを、得られる額がいくらであっても断ることになる。小さな慎重さをそのまま拡大すると、明らかにおかしな結論が出る。人が不合理なのではなく、拡大の仕方が間違っている |
| 期待値で考える人は、長期の成果が1.3倍から2.1倍になる | この数値の出どころを探したが、エルゴード性を扱った論文とその引用文献、意思決定の実験研究をたどっても、対応する一次情報にはたどり着けなかった。存在しないと断定はしないが、この単位では使わない。使えるのは、期待値が意味を持つ条件と、持たない条件を見分けることだけである |
期待値という言葉の便利さは、計算した瞬間に、自分が大勢の一人になれるところにある。100回試せば平均に近づく——ただし、その100回を経験するのは、100人であって、あなたではない。あなたが経験するのは1本の経路で、その経路が途中で0に触れたら、残りの99本は他人のものだ。数字を置くのはよいことだ。置いた数字が誰の人生の平均なのかは、確かめておいたほうがいい。
Q1. Peters(2019)の例では、表なら手持ちが ____ 倍、裏なら ____ 倍になる賭けの1回あたりの期待変化はプラス ____ %だが、一人が繰り返した場合には、およそ1回あたり5%ずつ ____ 。穴埋め
Q2. Rabin(2000)の較正定理が示したことを、論文中の数値を使って説明せよ。一問一答
Q3. Meder et al.(2021)の18人・2日間の実験が示したことはどれか。選択
Q4. 本文が、目の前の選択肢について「確率よりも先に確かめる」としたのはどれか。選択
Q5. 本文が示した、選択肢に数字を置いたあとに起きる順序を並べ替えよ。(A)確率の桁が1割・5割・9割の三段階に落ち着く(B)居心地の悪さが来る(C)繰り返せるかどうかの欄が効き始める(D)書いた確率を翌日に直したくなる並べ替え
今日1回。いま迷っている選択肢を1つ選び、次の3つを数字で書く。①うまくいく確率を、1割・5割・9割の三段階のどれかで置く(細かくしない)。②うまくいったときに得られるものの大きさを、10点満点の1つの数字で置く。③うまくいかなかったときに失うものの大きさを、同じく10点満点で置く。最後に、③が二度と戻れない種類かどうかを、はい・いいえで1行だけ足す。数字は当てるためではなく、桁を間違えていないかを確かめるために置く。当たっているかどうかは今日は分からないし、分からなくてよい。金融商品の購入や解約を伴う判断は題材にしない——時間の使い方、誘いを受けるかどうか、応募するかどうかで十分だ。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Peters O. (2019) 'The ergodicity problem in economics', Nature Physics 15(12):1216-1221 — www.nature.com
- Peters O., Gell-Mann M. (2016) 'Evaluating gambles using dynamics', Chaos: An Interdisciplinary Journal of Nonlinear Science 26(2):023103 — pubs.aip.org
- Meder D., Rabe F., Morville T., Madsen K.H., Koudahl M.T., Dolan R.J., Siebner H.R., Hulme O.J. (2021) 'Ergodicity-breaking reveals time optimal decision making in humans', PLOS Computational Biology 17(9):e1009217 — journals.plos.org
- Rabin M. (2000) 'Risk aversion and expected-utility theory: A calibration theorem', Econometrica 68(5):1281-1292 — dklevine.com
- Bernoulli D. (1738/1954) 'Exposition of a new theory on the measurement of risk', Econometrica 22(1):23-36 — www.econometricsociety.org
- Redelmeier D.A., Tversky A. (1992) 'On the framing of multiple prospects', Psychological Science 3(3):191-193 — journals.sagepub.com