物より経験を買え、という処方は141の研究で d=0.383 まで縮み、出版バイアスがその3分の1を説明しうる
物ではなく経験を買いなさい、という助言は、ほぼ無料で配れて、しかも誰も損をしない。だから20年も流通した。360の効果量を集め直すと、その効果の3分の1ほどは、失敗した研究が発表されなかったことで説明できる。
前の単位から:計算はできるようになったが、目的地が書かれていない
143「将来キャッシュフロー思考力」で、今日の1単位と10年後の1単位を同じ紙に載せた。率があり、年数があり、現在価値がある。道具はそろった。
そろっていないものが1つある。何のために計算していたのか、である。
この棚の最後の仕事は、それを言語化することだ。ただし断りを先に置く。この単位でも、特定の金融商品・口座・銘柄・保険・不動産は推奨も否定もしない。制度は改正されるので、具体の数字は必ず自分で一次情報にあたること。そして、人生の目的そのものをどう持つかという話は健康の棚の持ち場で、ここで扱うのは金銭に限った価値観である。範囲を狭くすることが、この単位の作法になる。
「何のためのお金か」は、感想ではなく2つの次元で測られている
価値観という言葉は曖昧に響くが、この領域には測定がある。
ネテマイヤー、ワーマス、フェルナンデス、リンチが2018年に Journal of Consumer Research に発表した研究は、本人が感じている経済的な満たされ具合を、はっきり別々の2つの次元に分けた。1つは、いまのやりくりから受けているストレス。もう1つは、将来の経済的な安心の見通しである。この2つは相関するが、同じものではない。
重要なのは、この指標と全体の幸福感との関係の強さだ。著者らは、この指標が全体の幸福感を予測する力は、仕事の満足度・身体の健康の自己評価・人間関係の支えへの満足という3つの領域を合わせたものと同程度の大きさだと報告している。しかも、いまのやりくりのストレスがどれくらい効くかは、所得の層によって変わる。
2つの次元に分けると、価値観の言語化がやりやすくなる。何が嫌かは現在の側から、何を確保したいかは将来の側から出てくるからだ。
値切り:物より経験を買うほうが幸せ、という処方
さて、金銭的な価値観の話でいちばん流通している処方を検品する。物ではなく経験を買え、というやつだ。
出どころははっきりしている。ヴァン・ボーヴェンとギロヴィッチが2003年に Journal of Personality and Social Psychology に発表した研究だ。学生97人に100米ドル以上の買い物を1つ思い出させて評定させると、経験の側が7.51、物の側が6.62。米国の1,279人への全国電話調査では、経験の購入のほうが自分を幸せにしたと答えた人が57%(95%信頼区間54〜60%)で、物の購入のほうだと答えた人を上回った。3つ目の研究では、コーネル大学の学生70人が1週間後に買い物を思い返したとき、経験のほうが気分がよくなった。
きれいな結果である。そして、この結果はその後20年ぶんの追試を浴びた。
ワインガーテンとグッドマンが2021年に Journal of Consumer Research に発表したメタ分析は、141の研究から360の効果量を集め直した。統合された効果量は d=0.383(95%信頼区間 .336〜.430)。優位は存在する。ただし著者らは、この効果の約3分の1が出版バイアス——効果が出なかった研究が発表されないこと——で説明されうると報告している。
さらに、優位が消える条件が並んでいる。物のほうが同等の実用的な便益をもたらす場合には、優位は消える。ひとりで行う経験では小さくなる。悪い経験では小さくなる。そして、社会経済的な地位が低い人ほど効果が弱い。
最後の条件を正面から検証した研究もある。リー、ホール、ウッドが2018年に Psychological Science に発表した研究は、社会階層が高い人では経験の購入のほうが幸せをもたらす一方、社会階層が低い人ではその優位が見られず、物の購入と同等かそれ以上に幸せになると報告した。
つまり、この処方には前提がついている。手元の資源が足りている人に向けた助言なのだ。それを万人向けの人生訓として配ると、資源が足りない人に対して、間違った買い物をしたという評価を上乗せすることになる。
種類ではなく、適合
では、何が残るのか。購入の種類ではなく、購入と本人の適合である。
マッツ、グラッドストーン、スティルウェルが2016年に Psychological Science に発表した研究は、英国の625人について76,863件の銀行取引の記録を性格の測定と突き合わせた。結果は、自分の性格に合った支出をしている人ほど生活満足度が高い、というものだった。しかもこの適合の効果は、総所得や総支出の効果より大きかった。
著者らはさらに、書店かバーで使える金券を配る現地実験を行い、外向的な人はバーで、そうでない人は書店で使ったほうが、その後の気分がよかったことを確認している。
この結果の効き目は、方向を指定しないところにある。何を買うべきか、という問いに答えを返さない。返すのは、答えは人によって違うので自分で確かめろ、という指示だけだ。売り物にならない助言である。だから流通しない。
もう一つ、逆側からの証拠がある。ディットマー、ボンド、ハースト、キャッサーが2014年に Journal of Personality and Social Psychology に発表したメタ分析は、259の独立した標本・753の効果量を統合し、物質主義的な価値や信念と本人の幸福の相関を r=−.19 と推定した。負の相関だが、大きくはない。しかも下位の指標で差があり、危険な行動や否定的な自己評価との関連が最も強く、生活満足度との関連が最も小さい。
読み方はこうだ。物を買うことが人を不幸にするのではない。物を持つことを人生の中心の価値に置くことと、本人の幸福の間に、弱い負の関連がある——それだけである。
時間・変化:価値観は宣言では変わらない。記録のほうが先に変わる
価値観を明確にする、というと、紙に理想を書き出す作業を想像する。順序が逆である。
実際に手に入るのは、すでに起きた支出の記録のほうだ。76,863件の取引を分析した研究が使ったのも、本人の申告ではなく口座の記録だった。何を大事にしているかは、口座がすでに知っている。
だから作業の順序はこうなる。まず記録を見て、そこから言語を後付けする。次に、記録と言語がずれている項目を1つだけ選ぶ。そして次の月の記録が、その言語に近づいたかを見る。宣言は最後に来る。
もう一つ、時間とともに変わるのは2つの次元の比重だ。若い時期はやりくりのストレスの側が支配的になりやすく、年齢が上がるにつれ将来の見通しの側の比重が上がる。同じ人が同じ「安心」という言葉で、指しているものを入れ替えている。年に一度、言い直す価値があるのはこのためだ。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
標本の偏りを断っておく。この単位の中心的な数字は、米国の学生と成人、そして英国の銀行口座の利用者に偏る。経験の優位の研究の多くは学生標本で、社会経済的な資源が少ない人は最初から標本に入りにくく、取引記録の研究は、記録を提供してもよいと考えた人だけの標本である。物価も通貨も制度も国ごとに違い、金額の水準は日本の読者にそのまま当てはまらない。持ち帰るのは、条件によって答えが入れ替わるという構造のほうである。
妨げるものは3つ。他人向けの処方を自分の価値観として採用すること——経験を買え、という助言は資源が足りている人向けだった。価値観を宣言から始めること。そして、金額の大小で自分の価値観を採点すること。
助けるものは2つ。2つの次元に分けて書くこと——いまのやりくりで何が嫌か、将来の何が確保されていれば安心か。そして、記録から言語を作ること。
最初の一歩は今日10分。直近の支出を3つ選び、それぞれに「何のため」を一文だけ付ける。付けられないものが1つでもあれば、それが今日の収穫である。
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16の単位を並べ直しておく。
青の4つ——129収入獲得力、130収入源多様化力、131人的資本認識力、132収支差(フロー)認識力——は、入ってくる量と、その源の設計だった。収入は能力ではなく経路の期待値と分布であること。収入源を増やすことには変動という代償があること。スキルと信用を将来収入の現在価値として見ること。そして起点として、手取りのフローを即答できる状態を作ること。
緑の4つ——133支出管理力、134流動性確保力、135キャッシュフロー管理力、136行動バイアス管理力——は、出ていく量とタイミングの統制だった。支出の分散を支配するのは小さな買い物ではなく大項目であること。手元現金がゼロだと長期の計画が短期の火事に食われること。既定値には副作用があること。お金に効くバイアスは3つだけ扱い、知っただけでは避けられないこと。
橙の4つ——137資産形成力、138純資産(ストック)認識力、139負債管理力、140バランスシート思考力——は、残った差分をストックに変え、借りたものを管理する運用だった。分布の形と費用の算術。資産合計から負債合計を引いた数を即答できる状態。金利と残高と期限の把握、そして支払いが滞っている状態は技術論の外にあること。最後に、1枚に統合すること。
桃の4つ——141金融リテラシー、142資本効率感覚、143将来キャッシュフロー思考力、そしてこの144金銭的価値観の明確化——は、制度と時間軸を理解し、全体を束ねる作業だった。知識は行動の分散の0.1%しか説明せず、1年半で減衰すること。費用は増える側と同じ指数で効くこと。将来の自分には送金できないこと。そして、何のためのお金かを2つの次元で言葉にすること。
この棚は最初にこう書いた。お金の話は、たいてい商品を売りたい人が書いている。だから「やれば増える」という形の話ばかりが残り、「やっても大して変わらない」という検証結果は本屋に並ばない。個人の財務は、法人が毎期やっていること——記録し、締め、把握し、配分する——を、誰も監査しない状態で自分ひとりでやる仕事である。
16単位を通ったいま、この非対称の正体がはっきりする。売り物があるところには研究の要約が付いてきて、売り物がないところには何も付いてこない。費用を減らす技術にも、純資産を数える作業にも、自分の性格に合う支出を探す作業にも、売り物はない。この棚が16回にわたって扱ったのは、ほとんど全部が、誰も宣伝してくれない側の技術だった。
最後に、通奏低音に一つだけ言い直しを足す。誰も監査しない、と書いた。正確には、監査人が一人だけいる。10年後のあなたである。その人は、あなたの記録を読むが、返事は書かない。
- Netemeyer, Warmath, Fernandes & Lynch 2018(Journal of Consumer Research 45(1):68-89):本人が感じている経済的な満たされ具合は、いまのやりくりから受けるストレスと、将来の経済的な安心の見通しという別々の2つの次元からなる。この指標が全体の幸福感を予測する力は、仕事の満足度・身体の健康の自己評価・人間関係の支えへの満足という3領域を合わせたものと同程度で、やりくりのストレスの重要性は所得の層によって変わる
- Van Boven & Gilovich 2003(Journal of Personality and Social Psychology 85(6):1193-1202):経験の購入は物の購入より幸せをもたらすという主張の出どころ。学生97人の評定は経験7.51対物6.62、米国の1,279人への全国電話調査では経験の購入のほうが幸せにしたと答えた人が57%(95%信頼区間54〜60%)、コーネル大学の学生70人の追跡でも経験のほうが気分がよかった
- Weingarten & Goodman 2021(Journal of Consumer Research 47(6):855-877):141の研究・360の効果量を統合したメタ分析で、経験の優位は d=0.383(95%信頼区間 .336〜.430)。ただし著者らは、この効果の約3分の1が出版バイアスで説明されうると報告している。優位は、物が同等の実用的便益をもたらす場合に消え、ひとりで行う経験・悪い経験・社会経済的地位の低い層で小さくなる
- Lee, Hall & Wood 2018(Psychological Science 29(7):1031-1039):社会階層が高い人では経験の購入のほうが幸せをもたらすが、社会階層が低い人では経験の優位が見られず、物の購入と同等かそれ以上に幸せになる。物より経験を、という処方には、手元の資源が足りていることという前提が付いている
- Matz, Gladstone & Stillwell 2016(Psychological Science 27(5):715-725):英国の625人について76,863件の銀行取引の記録を性格の測定と突き合わせた研究で、自分の性格に合った支出をしている人ほど生活満足度が高く、この適合の効果は総所得や総支出の効果より大きかった。書店かバーで使える金券を配る現地実験でも、性格に合う場所で使ったほうが気分がよかった
- Dittmar, Bond, Hurst & Kasser 2014(Journal of Personality and Social Psychology 107(5):879-924):259の独立標本・753の効果量を統合したメタ分析で、物質主義的な価値や信念と本人の幸福の相関は r=−.19。関連が最も強いのは危険な行動と否定的な自己評価で、生活満足度との関連は最も小さい。物を買うことが不幸にするのではなく、物を持つことを人生の中心の価値に置くことと幸福の間に弱い負の関連がある
- 価値観は宣言からではなく記録から作る。76,863件の取引を分析した研究が使ったのも本人の申告ではなく口座の記録だった。手順は、記録を見る→言語を後付けする→ずれている項目を1つ選ぶ→次の月の記録を見る、の順で、宣言は最後に来る
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 物より経験を買うほうが幸せになれる。これは研究で確かめられている | 141の研究・360の効果量を統合したメタ分析での効果量は d=0.383 で、著者らはその約3分の1が出版バイアスで説明されうると報告している。優位は、物が同等の実用的便益をもたらす場合には消え、ひとりで行う経験や悪い経験では小さくなり、社会経済的な地位が低い層では見られない。資源が足りている人向けの助言を万人向けの人生訓として配ると、資源が足りない人に、間違った買い物をしたという評価を上乗せすることになる |
| 金銭的な価値観は、まず理想を紙に書き出して明確にするものだ | 順序が逆である。すでに手元にあるのは支出の記録のほうで、何を大事にしているかは口座がすでに知っている。76,863件の取引を分析した研究も、本人の申告ではなく記録を使った。実務の順序は、記録を見る、言語を後付けする、ずれている項目を1つ選ぶ、次の月の記録を見る。宣言は最後に来る |
| 物欲が強いと不幸になる。だから欲しいものを我慢するのが正しい | 259の独立標本・753の効果量を統合したメタ分析で、物質主義的な価値と幸福の相関は r=−.19 だった。負の関連だが大きくはなく、生活満足度との関連は下位の指標のなかで最も小さい。一方、英国の625人・76,863件の取引の分析では、性格に合った支出をしている人ほど生活満足度が高く、その効果は総所得や総支出より大きかった。効いているのは購入の種類でも我慢の量でもなく、支出と本人の適合である |
この棚で最後まで売り物にならなかったのが、この単位である。何を買えば幸せになるかを教える助言には市場がある。物より経験を、という一文は20年ぶん流通した。答えは人によって違うので自分の口座の記録から探してください、という一文は、講演にも広告にも使えない。だから配られない。141の研究を集め直したら効果の3分の1が出版バイアスで説明できた、という続報も、同じ理由で配られない。皮肉なのは、この棚が16回かけて積み上げたものが、ほぼ全部この「配られない側」だったことだ。手取りのフローを数える。現金の緩衝を作る。負債の期限を把握する。費用を減らす。純資産を1枚に載せる。どれ一つ売り物にならず、どれ一つ他人が代わりにやってくれない。誰も監査しない仕事を、誰にも褒められないまま続けることになる。ただし、監査人が一人だけいる。10年後のあなたである。その人は、あなたの記録を読むが、返事は書かない。
Q1. 経験の購入の優位について、141の研究・360の効果量を統合したメタ分析が出した効果量と、出版バイアスについての指摘、そして優位が消える条件を3つ挙げよ。一問一答
Q2. 英国の625人・76,863件の銀行取引を分析した研究の結論として、本文の記述と一致するものはどれか。選択
Q3. 本人が感じている経済的な満たされ具合は、いまのやりくりから受ける____と、将来の経済的な____という2つの次元からなる。またこの指標が全体の幸福感を予測する力は、仕事の満足度・身体の健康の自己評価・人間関係の支えへの満足という____の領域を合わせたものと同程度である。穴埋め
Q4. この棚(金運の棚)の積み上げ構造を、下の段から順に並べよ。(残った差分をストックに変え、借りたものを管理する/制度と時間軸を理解し、全体を束ねる/入ってくる量と、その源の設計/出ていく量とタイミングの統制)並べ替え
Q5. 物質主義と幸福の関係を259の独立標本から推定したメタ分析の結果を数値で述べ、本文が示した「価値観の作り方の順序」を説明せよ。一問一答
直近の支出を3つ選ぶ。金額の大小も種類も問わない——公共料金でも、食べ物でも、誰かへの支払いでもよい。それぞれに「何のため」を一文だけ書く。長く書かない。1文で書けないものには、代わりに×を1つ付ける。書き終えたら、3つの文のうち、いまのやりくりの話をしているものと、将来の安心の話をしているものを分けて印を付ける。金融商品の購入・解約・口座開設はしない。支出の記録が手元にない読者でも今日できる代替:これから1週間で確実に発生する支出を3つ挙げ、同じ手順で一文ずつ付ける。この課題は、支出の良し悪しを判定するものではない——判定を書き込まないこと。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Netemeyer R.G., Warmath D., Fernandes D., Lynch J.G. Jr. (2018) 'How Am I Doing? Perceived Financial Well-Being, Its Potential Antecedents, and Its Relation to Overall Well-Being', Journal of Consumer Research 45(1):68-89 — academic.oup.com
- Van Boven L., Gilovich T. (2003) 'To Do or to Have? That Is the Question', Journal of Personality and Social Psychology 85(6):1193-1202 — pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
- Weingarten E., Goodman J.K. (2021) 'Re-examining the Experiential Advantage in Consumption: A Meta-Analysis and Review', Journal of Consumer Research 47(6):855-877 — academic.oup.com
- Lee J.C., Hall D.L., Wood W. (2018) 'Experiential or Material Purchases? Social Class Determines Purchase Happiness', Psychological Science 29(7):1031-1039 — journals.sagepub.com
- Matz S.C., Gladstone J.J., Stillwell D. (2016) 'Money Buys Happiness When Spending Fits Our Personality', Psychological Science 27(5):715-725 — journals.sagepub.com
- Dittmar H., Bond R., Hurst M., Kasser T. (2014) 'The relationship between materialism and personal well-being: A meta-analysis', Journal of Personality and Social Psychology 107(5):879-924 — research.brighton.ac.uk