「規律があれば高値掴みしない」——だが競争は構造的に払い過ぎる人を選び、自信過剰が上乗せする
規律さえ持てば高値掴みはしない、と教わる。規律は確かに効く——自分の金を賭ける買い手は、他人の金で買う買い手より低く払う。だが、それだけでは足りない。会社の売却は多くが競り合いで、競争は、その事業をいちばん高く評価した人を選ぶ。勝つことと払い過ぎることは相関する。そこへ自信過剰が上乗せする。だから規律は心構えではなく、歩ける準備という行動で縛る。
高値掴みを避ける——「規律」だけでは足りない
前の単位で、条件の組み立て——アーンアウトという両刃が手に入った。ここからは、その条件でいくらまで払うのか——上限を、どう規律するかに進める。
用語をほどく。高値掴みとは、その事業の値打ち以上に払ってしまうことだ。ウォークアウェイ価格(walk-away price=これ以上は払わない、と先に決めておく上限)を持つことが、その予防の柱になる。もう一つ、買収プレミアムとは、相場より上乗せして払う額のことである。読者は、買う側にも、売る側にも立ちうる。よく聞くのは、「規律さえ持てば、高値掴みはしない」という言い方だ。
この単位が示すのは、規律は確かに効く——だが、それだけでは足りない、ということである。なぜなら、競争(オークション)そのものが、構造的に「払い過ぎる人」を選び、経営者の自信過剰が、それに上乗せするからだ。だから、規律は、心構えではなく、行動で縛る必要がある。その中身は、「歩ける」準備にある。
この棚を貫く見方が、値付けの段でも効く。「M&Aの七割は失敗する」という数字に、確かな出典はない。 だが、査読された研究が繰り返し示すことの一つが、この単位の主題だ——買い手が、しばしば払い過ぎる。買い手の平均リターンがほぼゼロで、ばらつきが大きいという実証の絵の、その下振れの一因が、この高値掴みである。しかも厄介なのは、それが、うっかりや不注意で起きるのではなく、競争という仕組みと、人の心理の合わせ技で、いわば構造的に起きることだ。だからこの単位は、「気合いで気をつける」の外側に、規律の正体を探す。
規律は、効く——「歩ける」準備は、高値掴みを減らす
まず、良い知らせから。規律は、絵に描いた餅ではない。Bargeron らが2008年に示したのは、インセンティブの鋭い買い手——たとえば、自分の金を賭けて投資する私的な買い手(プライベート・エクイティなど)——は、他人の金で買う公開企業の買い手より、系統的に低いプレミアムしか払わない、という向きだった。
なぜか。払い過ぎれば自分がじかに損をする立場の人は、上限を厳しく引き、そこを超えたら歩く。つまり、規律は効く。そして、その規律の正体は、精神論ではなく、「ここを超えたら、この取引から歩いて去る」と、先に決めておくこと——ウォークアウェイ価格を持つこと、である。歩ける人は、払い過ぎない。逆に言えば、「どうしても欲しい」「ここまで来たら引けない」と、歩けなくなった瞬間に、規律は消える。これが、この単位のいちばん確かな柱だ。
ここで、Bargeron らの発見の含みを、もう少しかみくだく。私的な買い手が低く払うのは、彼らが特別に賢いからというより、払い過ぎたときに痛むのが、自分の懐だからである。他人の金——たとえば、会社の資金や、株主の金——で買う立場になると、その痛みが、一段遠くなる。すると、上限は、少しずつゆるむ。この差は、能力の差ではなく、誰の痛みで払うかという立場の差だ。だとすれば、一人の商いで、自分の金で事業を買おうとしている読者は、この点ではむしろ有利にいる——払い過ぎれば、まっすぐ自分に返ってくるからだ。問題は、その痛みの近さを、競争の熱で、一時的に忘れてしまうことにある。上限を先に紙に書くのは、その痛みを、熱くなる前の冷静な自分に、思い出させておくための仕掛けである。
だが「勝者の呪い」は強い——競争が、払い過ぎる人を選ぶ
ところが、規律を持っていても、油断できない理由がある。会社の売却は、多くの場合、一対一の交渉ではなく、複数の買い手が競り合うオークションの形をとる。Boone と Mulherin が2007年に示したのは、売却の多くが競争的なプロセスで進み、その競争がプレミアムを押し上げる、ということだった。
ここに、「勝者の呪い(winner's curse)」がひそむ。Varaiya と Ferris が1987年に、Varaiya が1988年に示したのは、競争的な買収では、その事業をいちばん高く評価した者が、競り勝ちやすい——つまり、「勝つこと」と「払い過ぎること」が、相関する、ということだった。全員が真剣に評価していても、いちばん強気に見積もった人が競り落とすのだから、落札額は、みなの評価の平均より、高くなりがちだ。勝った、という高揚の裏で、実は、いちばん高く見積もりすぎた人が選ばれている。Officer が2003年に示したように、解約金などの「ディール保護」の仕組みも、この競争のかたちを左右する。規律を持って臨んでも、競争の構造そのものが、あなたを払い過ぎの側へ押し出そうとするのだ。
この「勝者の呪い」の怖さは、それが、間違った人にだけ起きるのではない、という点にある。全員が同じくらい真面目に、同じくらい丁寧に値踏みをしても、評価には必ずばらつきが出る。そして、いちばん高く出た見積もりの持ち主が、競り勝つ。だから、いちばん楽観的に見た人が、いちばん高く払う席に、自動的に座らされる。これは、その人が不真面目だからでも、計算を間違えたからでもない——ただ、競争という仕組みが、そういうふうに設計されているだけだ。だからこそ、「自分は真剣に評価したから大丈夫」という自信は、ここでは守りにならない。真剣であることと、呪いにかからないことは、別なのだ。守りになるのは、真剣さの量ではなく、上限で歩ける、という一点だけである。
自信過剰が、上乗せする——だから「歩ける」ことこそ規律
さらに、もう一段ある。Pan らが2019年に示したのは、経営者の自信過剰が、買収プレミアムを膨らませる、という向きだった。これは、この棚の入口で触れた「うぬぼれ(hubris)による買収」——自分ならうまくやれる、という過信——と、地続きだ。
競争が払い過ぎを選び、その上に、自信過剰が上乗せする。この二つの圧力の前では、「気をつけよう」という漠然とした規律は、簡単に押し流される。だから、規律は、心構えではなく、行動で縛る必要がある——熱くなる前に、上限を書いておく。そして、その上限に達したら、実際に歩く。なお、売る側から見れば、この競争の力学は、むしろ味方だ——複数の買い手を競わせれば、プレミアムは上がる。ただし、呪いに乗って高く入れた買い手は、あとで悔いて統合に身が入らなかったり、条件をひっくり返そうとしたりすることもある。高い値を引き出すことと、取引を最後まで無事に着地させることは、別の問題である。売る側にとっても、いちばん高い札が、いちばん良い相手とはかぎらない。
時間・変化:高値掴みの研究
順に置く。1987年、Varaiya と Ferris が勝者の呪いを、1988年、Varaiya がその検証を示す。2003年、Officer がディール保護と競争を示す。2007年、Boone と Mulherin が競争プロセスとプレミアムを示す。2008年、Bargeron らが規律による低いプレミアムを、2019年、Pan らが自信過剰とプレミアムを示した。
この数十年で確からしくなったのは、「規律があれば高値掴みしない」ではない。確からしくなったのは、規律(歩ける準備)は確かに効くが、競争は構造的に払い過ぎる人を選び、自信過剰が上乗せする——だから規律は、心構えでなく、行動で縛る必要がある、という向きのほうである。熱くなる前に、冷静な自分が引いた線——それだけが、熱のさなかで頼りになる。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「規律さえあれば大丈夫」という過信だ。競争と自信過剰の圧力は強く、漠然とした規律は、その前で押し流される。もうひとつの妨げは、相手や案件を見てから上限を決めることである——見てから決めると、上限そのものが、欲しい気持ちに引きずられて動く。
助けになるのは、上限を、熱くなる前に、行動で決めておくことだ——「ここを超えたら歩く」を、紙に書く。そして、競り合いのさなかに、その紙を動かしたくなる自分を、先に予想しておくこと。歩けなくなる場面を知っておけば、その場面で、書いた自分に立ち返れる。
最初の一歩は10分。自分の事業で、もし何かを買うとしたら(事業でも、設備でも、まとまった在庫でもよい)、「これを超えたら見送る」という上限を、相手の言い値を見る前に、自分で一つ決めて書く。次に、あとで、その上限を超えて払いたくなるとしたら、それはどんな場面かを想像して書き足す(競合が現れた、時間がなくなった、相手に気に入られたい、ここまで動いた労力がもったいない)。実際に買う判断をする必要はない——自分の価格規律メモだけで完結する。上限を動かしたくなる場面を先に知っておけば、その場面で、紙に書いた自分に立ち返れる。
この習慣は、大きなM&Aだけの話ではない。高い設備を買う、大口の仕入れを決める、新しい店を借りる——どれも、競り合いや、時間の圧力や、「せっかくここまで来たのだから」という気持ちが働く場面だ。どの場面でも、効くのは同じ一手——見る前に上限を書き、越えたら歩く。そして、場数の少ない小さな担い手ほど、この一手の効き目は大きい。なぜなら、場数のなさは、熱くなったときに立ち返る「自分の過去の記録」が薄い、ということでもあるからだ。だから、せめて、いま冷静なうちに書いた一枚を、未来の、熱くなった自分への手紙として、残しておく。上限とは、他人に示す条件である前に、自分との約束なのである。
次の単位は 503「契約に守りを仕込むには?」——いくらまで払うかの規律から、その値段の裏で、隠れたリスクを契約でどう配分するのかへ進む。
- この棚の読者は会社や事業を買う・売る決断に立ち会う人で、緑の段の二歩目として高値掴みの予防を扱う。高値掴みは値打ち以上に払うこと、ウォークアウェイ価格はこれ以上払わないと先に決めておく上限、買収プレミアムは相場より上乗せして払う額である。俗説『規律さえ持てば高値掴みしない』に対し、規律は効くがそれだけでは足りず競争と自信過剰が払い過ぎへ押し出すと見る
- 規律は絵に描いた餅ではない。Bargeron ら 2008はインセンティブの鋭い買い手(自分の金を賭ける私的買い手=プライベート・エクイティなど)が他人の金で買う公開企業の買い手より系統的に低いプレミアムしか払わないことを示した。払い過ぎれば自分が損をする立場の人は上限を厳しく引きそこを超えたら歩く。規律の正体は歩ける準備=ウォークアウェイ価格を持つことである
- 会社の売却は多くが一対一の交渉ではなく複数の買い手が競り合うオークションで、Boone & Mulherin 2007は売却の多くが競争的プロセスで進み競争がプレミアムを押し上げることを示した。Officer 2003は解約金などのディール保護が競争のかたちを左右することを示す。競争の構造そのものが払い過ぎの側へ押し出す
- 競争には勝者の呪い(winner's curse)がひそむ。Varaiya & Ferris 1987とVaraiya 1988は、競争的な買収でその事業を最も高く評価した者が競り勝ちやすく、勝つことと払い過ぎることが相関することを示した。全員が真剣に評価してもいちばん強気に見積もった人が競り落とすため落札額はみなの評価の平均より高くなりがちで、勝った高揚の裏で最も高く見積もりすぎた人が選ばれている
- 経営者の自信過剰が買収プレミアムを膨らませる(Pan ら 2019)。これはこの棚の入口で触れたうぬぼれ(hubris)による買収と地続きである。競争が払い過ぎを選びその上に自信過剰が上乗せするため、二つの圧力の前で気をつけようという漠然とした規律は簡単に押し流される。だから規律は心構えでなく行動で縛る必要がある
- 確からしくなったのは規律があれば高値掴みしないではなく、規律(歩ける準備)は効くが競争は構造的に払い過ぎる人を選び自信過剰が上乗せするため規律は行動で縛る必要がある、という向きである。熱くなる前に上限を書きそこを超えたら実際に歩く。売る側には競争は味方だが、呪いに乗って高く入れた買い手は統合に身が入らないこともあり、いちばん高い札がいちばん良い相手とはかぎらない
- 最初の一歩は10分。自分の事業で何かを買うとしたら、これを超えたら見送るという上限を相手の言い値を見る前に自分で決めて書き、あとでその上限を超えて払いたくなるとしたらどんな場面か(競合が現れた・時間がなくなった・気に入られたい・ここまでの労力がもったいない)を書き足す。実際に買う判断をせず自分の価格規律メモで完結する。上限を動かしたくなる場面を先に知っておけばその場面で書いた自分に立ち返れる
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 高値掴みは、しっかり規律を持って臨めば避けられる。気をつけていれば払い過ぎない | 規律は効くが、それだけでは足りない。Bargeron ら 2008はインセンティブの鋭い私的買い手(自分の金を賭けるプライベート・エクイティなど)が公開買い手より系統的に低いプレミアムしか払わないことを示し、規律の有効性を支える。だが会社の売却の多くは競争的なプロセスで進んで競争がプレミアムを押し上げ(Boone & Mulherin 2007・Officer 2003)、その競争はその事業を最も高く評価した者を選ぶ勝者の呪いを持ち(Varaiya & Ferris 1987・Varaiya 1988)、経営者の自信過剰が上乗せする(Pan ら 2019)。漠然とした規律はこの圧力の前で押し流される |
| 競り合いに勝てたのだから、その値段は妥当で、良い買い物だったはずだ | 競争的な買収では、その事業を最も高く評価した者が競り勝ちやすく、勝つことと払い過ぎることが相関する(勝者の呪い・Varaiya & Ferris 1987・Varaiya 1988)。全員が真剣に評価していても、いちばん強気に見積もった人が競り落とすため、落札額はみなの評価の平均より高くなりがちである。勝ったという高揚の裏で、実はいちばん高く見積もりすぎた人が選ばれている。競争の構造そのものが払い過ぎの側へ押し出すため、勝てたこと自体は妥当な値段の証拠にならない |
| 高値掴みを防ぐには、良い上限を頭の中で意識しておけばよい | 規律は心構えではなく行動で縛る必要がある。競争と自信過剰の圧力は強く、漠然とした規律は押し流される。だから上限は熱くなる前に決めて書いておき、そこを超えたら実際に歩く(ウォークアウェイ価格=歩ける準備)。相手や案件を見てから上限を決めると上限そのものが欲しい気持ちに引きずられて動く。歩けなくなった瞬間に規律は消えるため、上限を動かしたくなる場面を先に予想しておくことが要る。なお売る側には競争は味方だが、いちばん高い札がいちばん良い相手とはかぎらない |
皮肉なのは、いちばん熱心に競り合って勝ち取った買収ほど、いちばん高くつきやすいことだ。勝者の呪いは、負けた人ではなく、勝った人にかかる。全員が真剣に値踏みするほど、いちばん高く見積もりすぎた人が競り落とし、その人は、勝利の握手をしながら、平均より高い値札を握らされている。良い買い物ができたように見えるとき、たいていそれは、まだ、その値段が正しかったのか、確かめようがないだけかもしれない。規律とは、気合いのことではない。熱くなる前に上限を書き、その線を越えたら、握手の手前で、歩いて帰れることだ。歩けない人に、上限は無い。
Q1. 『規律があれば高値掴みしない』を、この単位は『それだけでは足りない』と値切った。足りない理由を二つ述べよ。一問一答
Q2. インセンティブの鋭い ____ 買い手(自分の金を賭ける買い手)は、他人の金で買う公開買い手より系統的に低い ____ しか払わない(Bargeron ら 2008)。規律の正体は、これを超えたら歩くと先に決めておく ____ 価格を持つことである。穴埋め
Q3. 『競り合いに勝てたのだから良い買い物だった』という考えに対する、この単位の立場はどれか。選択
Q4. この単位は『規律を行動で縛る』とはどういうことか。ウォークアウェイ価格に触れて述べよ。一問一答
Q5. この単位が扱った高値掴みの研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Boone と Mulherin が競争プロセスとプレミアムを示す(イ)Varaiya と Ferris が勝者の呪いを示す(ウ)Pan らが自信過剰とプレミアムを示す(エ)Bargeron らが規律による低いプレミアムを示す並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、自分の事業で、もし何かを買うとしたら(事業でも、設備でも、まとまった在庫でもよい)、『これを超えたら見送る』という上限を、相手の言い値や条件を見る前に、自分で一つ決めて書く。そのうえで、あとでその上限を超えて払いたくなるとしたら、それはどんな場面かを想像して書き足す(競合が現れた、時間がなくなった、相手に気に入られたい、ここまで動いた労力がもったいない、など)。各場面について、そのときどうすれば書いた上限に立ち返れるかを一言添える。実際に買う判断をしたり、特定の相手を評価したりする必要はなく、自分の価格規律メモだけで完結させる。最後に、決めた上限と、動かしたくなる場面の数を書き添える。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Bargeron L.L., Schlingemann F.P., Stulz R.M., Zutter C.J. (2008) ‘Why do private acquirers pay so little compared to public acquirers?’, Journal of Financial Economics 89(3):375-390 — doi.org
- Boone A.L., Mulherin J.H. (2007) ‘How Are Firms Sold?’, The Journal of Finance 62(2):847-875 — doi.org
- Varaiya N.P., Ferris K.R. (1987) ‘Overpaying in Corporate Takeovers: The Winner’s Curse’, Financial Analysts Journal 43(3):64-70 — doi.org
- Varaiya N.P. (1988) ‘The “winner’s curse” hypothesis and corporate takeovers’, Managerial and Decision Economics 9(3):209-219 — doi.org
- Officer M.S. (2003) ‘Termination fees in mergers and acquisitions’, Journal of Financial Economics 69(3):431-467 — doi.org
- Pan A. et al. (2019) ‘Managerial overconfidence, debt capacity and merger & acquisition premium’, Nankai Business Review International 10(4) — doi.org