「準備が交渉の8割」——だが、その8割に出典はなく、実証の大半は模擬交渉だ
交渉を教わると、まず『準備が交渉の8割』と聞く。だが、その8割という数字に学術的な出どころは無く、実務家の語り草だ。準備そのものは効くが、確かめられているのは資料の量ではなく、あらかじめ高い目標を具体的に決めておくこと。しかも交渉の実証の大半は学生や社会人の模擬交渉で、実地の紛争での実験はまれである。教えの由緒と、目の前の相手への効き目は、別物だ。交渉は打ち負かす競技でなく、合意の質を上げる共同作業である。
この棚は、誰に向けて書かれているか
この棚の読者は、交渉の担当者に限らない。自分で交渉のテーブルにつく人である。取引条件を自分で詰める代表、家賃の更新や外注費の改定を自分で話す人、もめ事を自分で収めるしかない店主、家族経営で身内と条件を話す人——だからこの棚は「交渉人は」「調達部は」で主語を立てない。 代理人や顧問、研修予算があることを前提にしない。大型の商談と家賃の交渉、企業どうしと個人どうしに、優劣を付けない。
言葉は初めて出てくるところでほどく。ZOPA(合意できる金額や条件の幅)、BATNA(交渉がまとまらなかったときの最善の代わりの手)、留保値(これ以上は譲れないという境目)といった言葉は、この先に一つずつ出てくる。原則立脚・統合型・分配型・アンカー・示談・調停・仲裁・ADRも、その場でほどく。交渉の予備知識がある前提は、置かない。
そして、この棚は最初に一度だけ、はっきり断っておく——交渉は、相手を打ち負かす競技ではない。合意の質を上げる共同作業である。 どちらかが勝ち、どちらかが負ける勝負として構えるほど、まとまるものもまとまらなくなる。そしてもう一つ——合意しないことが、最善の場合がある。 どんな条件でも合意にこぎつけるのが上手な交渉なのではない。悪い合意なら、席を立つほうが良いことは、しばしばある。この棚は「これを言えば勝てる」の棚にはしない。16の問いそれぞれで言うことを3つに絞る——何を指すのか。どこまで効くと確かめられているのか。その外で何が起きるか。 読者の像と、この断りを書くのは、この単位だけである。身内が相手でも、この構えは変わらない。相手が近しいほど、勝ち負けの発想は関係を削る。
この棚の地図——四つの段を、順に絞る
この棚はバラバラの技の寄せ集めではない。広く準備するところから、合意へ向けて順に絞っていく、ひとつの流れである。まず準備で選択肢と見通しを広げ、対話でそれを設計し、合意として確定させ、最後にそれを組織の習慣に落とす。
①青 465〜468|準備——準備そのもの、落とし所の設計、代替案、利害で話す構え。②緑 469〜472|設計と対話——パイを広げる、感情への対応、強硬な相手、駆け引きと戦術。③橙 473〜476|合意の確定——言質、文書化、振り返り、示談。④桃 477〜480|制度と組織——調停や仲裁、社内の対立、倫理、そして組織への定着。
準備があやふやなまま対話に入ると、その先の合意も確定もぐらつく。 だからこの棚は、いちばん手前——準備、その最初の一問から始める。ただし、これは一本道の処方ではない。やってみて初めて、準備の甘さに気づくこともある。段は身につける順であって、こなす順ではない。 それでも順序には意味がある。準備で狙いが定まっていないと、対話の途中で足元が崩れ、その場の勢いに流されて悪い合意に飲まれやすい。だから、まず準備を固める。
「準備が交渉の8割」——その8割に、出典はない
交渉を教わると、たいてい最初に聞くのが「準備が交渉の8割」という言葉だ。念入りに備えれば、勝負はもう決まっている、と。だが、この単位が最初に置く見方はこうだ——その「8割」という数字に、学術的な出どころは無い。
「8割」がどこから来たのかを文献にあたって探しても、その割合を導いた実証研究は見当たらない。 これは、実務家のあいだで語り継がれてきた数字ロア——出どころのはっきりしない言い回し——である。だからこの棚は、その数字を事実としては使わない。ここで、この棚が16回くり返す見方を正面から立てる。教えの由緒と、目の前の相手への効き目は、別物である。 交渉の名著の教えは確かに実在するが、「◯割」という具体的な数字が付いたとき、その数字が測られたものなのか、語り草なのかは、いつも分けて見なければならない。検証されていないことを、間違っていることとすり替えない。 ただ、語り草に確定した数字の顔をさせない、というだけだ。数字は、具体的であるほど本当らしく聞こえる。端数のない数字ほど、出どころをたどると語り草にたどり着くことが多い。まず、その数字が誰の何の測定なのかを問う癖が、備えの入口になる。
準備は効く——ただし、その中身は「高い目標」である
では「準備」そのものは、効かないのか。そうではない。ただし、実証で効くと確かめられているのは、「たくさん資料を集める」ことではなく、準備の中でも「どこを目指すか」という目標の高さである。準備を測れる形に置きかえると、それは目標設定——自分が狙う水準をあらかじめ決めておくこと——になる。
Zetik と Stuhlmacher が2002年に、目標設定と交渉成果の関係を多くの研究から統合し(メタ分析)、高い目標をあらかじめ持って臨む人ほど、交渉の成果が良くなる傾向を報告した。Huber と Neale が1986年と1987年に、目標が交渉者の成果を左右することを実験で示し、Northcraft・Neale・Earley が1994年に、目標と訓練が組み合わさって成果に効くことを示している(これらは目標設定を扱った近い研究群なので、独立した別々の証拠のように数えないでおく)。つまり、準備の値打ちは、あいまいな「よく備える」ではなく、「どこまでを狙うかを、具体的に決めておく」という一点に絞れる。 高すぎて非現実的なのは論外だが、低く見積もって臨むと、そのぶんしか手に入らない。ここで注意したいのは、高い目標が効くのは、それを口に出して相手に押しつけるからではなく、自分の中で狙いが定まるからだという点だ。目標は、相手を動かす道具である前に、自分の判断を支える錨である。
実証の大半は、模擬交渉である——教えの由緒と、実地の効き目
ここで、もう一段の慎重さが要る。いま挙げた知見も含めて、交渉についての実証研究の大半は、学生や社会人に協力してもらった「模擬交渉」で得られたものである。Thompson が1990年に、交渉の行動と成果についての研究を広く総括し、Stuhlmacher と Gillespie が2005年に、この分野の実証がどんな方法で積み上げられてきたかを検討して、知見の多くが実験室の模擬場面に由来し、実際の紛争の現場での実地実験はまれであることを示している。
これは、模擬交渉の知見が無意味だという話ではない。方向を教えてくれる貴重な地図だ。ただ、実験室で協力的な相手と短時間やり取りするのと、生活や事業がかかった相手と長く向き合うのとは、条件がまるで違う。 目標を高く持つと成果が上がる、という傾向は確からしいが、それがあなたの、あの相手との、あの一件でそのまま当てはまるとは限らない。 だからこの棚は、教えを「そのまま効く公式」としては渡さない。由緒のある地図と、目の前の地形は、別物として扱う。 この慎重さは、教えを捨てる理由にはならない。地図が完璧でなくても、地図なしで歩くよりはるかに遠くへ行ける。大切なのは、地図を信じきらず、目の前の地形とのずれに気づけるようにしておくことだ。
時間・変化:1986年から今へ
順に置く。1986年と1987年、Huber と Neale が、目標が交渉者の成果を左右することを実験で示す。1990年、Thompson が交渉の行動と成果の研究を総括し、知見が主に模擬場面に由来することを浮かび上がらせる。1994年、Northcraft らが目標と訓練の組み合わせの効果を示し、2002年、Zetik と Stuhlmacher がメタ分析で「高い目標は成果を上げる」傾向をまとめ、2005年、Stuhlmacher と Gillespie がこの分野の実証の方法そのものを検討した。
この数十年で確からしくなったのは、「準備が8割」という数字ではない。確からしくなったのは、準備の効き目は「高い目標を具体的に決める」ことに絞れること、そしてその知見の多くが模擬交渉に由来すること——という、二段の慎重な事実のほうである。言い換えれば、この分野が積み上げてきたのは、勝つための必勝法ではなく、何がどこまで確からしいかという、地図の縮尺のほうだった。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、「8割」のような耳あたりのよい数字を、備えの根拠にすることである。数字が具体的なほど確かに聞こえるが、出どころのない数字は、あなたの交渉の実測ではない。もう一つは、準備を「資料の分厚さ」で測ってしまうことだ。備えの厚みは、狙いの高さや明確さとは違う。
助けになるのは、資料を増やす前に、自分がこの交渉で「どこを狙うか」を、先に言葉にしておくことだ。最初の一歩は10分。次にある(または直近にあった)交渉を一つ思い浮かべ、「いちばん良ければどうなってほしいか(目標)」「これ以下なら受けないという境目(最低ライン)」「まとまらなかったら自分はどうするか」の三つを、自分の言葉で書き出すだけでよい。相手がどう出るかの推測も、相手を試す仕掛けも、いまはいらない。ただ、自分の狙いと引き際を、対話に入る前に、自分の手元で決めておく。 ここが、この棚の準備の起点になる。三つのうち、いちばん書きにくいのは、たいてい『まとまらなかったらどうするか』である。そこが空白のまま席につくと、人はどんな条件でも合意したくなる。引き際を先に決めることが、悪い合意から自分を守る。
次の単位は 466「落とし所を設計するには?」——決めた狙いをもとに、合意できる幅をどう描くか、という落とし所の設計へ進む。
- この単位は棚の★(order1・棚頭一致・タイプA=ファネルの起点)で、読者定義・4段の地図・一度だけの断り・通奏低音①の正面展開を担う。読者は自分で交渉のテーブルにつく人(交渉担当に限らず、取引条件を詰める代表・家賃や外注費を話す人・もめ事を収める店主・身内と話す家族経営を含む)。交渉人は/調達部はで主語を立てず、代理人・顧問・研修予算を前提にせず、大型商談と家賃交渉・企業どうしと個人どうしに優劣を付けない
- 一度だけの断り——交渉は相手を打ち負かす競技ではなく合意の質を上げる共同作業であり、そして合意しないことが最善の場合がある。この棚はバラバラの技の寄せ集めでなく広く準備するところから合意へ順に絞る流れで、①青465-468準備、②緑469-472設計と対話、③橙473-476合意の確定、④桃477-480制度と組織。段は身につける順であってこなす順ではない
- この棚の通奏低音①を正面から立てる——『準備が交渉の8割』のその8割に学術的な出どころは無く、その割合を導いた実証研究は見当たらない実務家の数字ロアである。だからこの棚はその数字を事実として使わない。教えの由緒と目の前の相手への効き目は別物で、◯割という数字が付いたら測られたものか語り草かを分けて見る。語り草に確定した数字の顔をさせない
- 準備そのものは効くが、実証で確かめられているのは資料を集めることではなく準備のうち『どこを目指すか』という目標の高さである。Zetik & Stuhlmacher 2002(Group Processes & Intergroup Relations 5(1):35-52)はメタ分析で高い目標を持って臨む人ほど交渉成果が良くなる傾向を報告し、Huber & Neale 1986・1987、Northcraft・Neale・Earley 1994(目標設定の近い研究群として一括提示)も目標が成果を左右することを示した
- 交渉についての実証研究の大半は学生や社会人による模擬交渉で得られたものである。Thompson 1990(Psychological Bulletin 108(3):515-532)は交渉の行動と成果の研究を広く総括し、Stuhlmacher & Gillespie 2005(International Negotiation 10(1):67-78)はこの分野の実証の方法を検討して、知見の多くが実験室の模擬場面に由来し実地実験はまれであることを示した。実験室で短時間やり取りするのと生活のかかった相手と長く向き合うのとは条件が違う
- 模擬交渉の知見は方向を教えてくれる貴重な地図だが、目標を高く持つと成果が上がるという傾向があなたのあの相手とのあの一件でそのまま当てはまるとは限らない。だからこの棚は教えをそのまま効く公式として渡さず、由緒のある地図と目の前の地形を別物として扱う。出どころのない数字はあなたの交渉の実測ではなく、準備を資料の分厚さで測るのも誤りで、備えの厚みは狙いの高さとは違う
- この数十年で確からしくなったのは準備が8割という数字ではなく、準備の効き目は高い目標を具体的に決めることに絞れること、そしてその知見の多くが模擬交渉に由来することという二段の慎重な事実である。だからこの単位でやるのは、次の(または直近の)交渉について、いちばん良ければどうなってほしいか(目標)・これ以下なら受けない境目(最低ライン)・まとまらなかったら自分はどうするかの三つを自分の言葉で書き出し、狙いと引き際を対話に入る前に自分の手元で決めておくことである
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 準備が交渉の8割なのだから、とにかく念入りに資料を集めて備えれば勝負はほぼ決まる | 『準備が交渉の8割』の8割という数字に学術的な出どころは無く、その割合を導いた実証研究は見当たらない実務家の数字ロアである。準備そのものは効くが、実証で確かめられているのは資料の量ではなく準備のうち高い目標を具体的に決めておくことである(Zetik & Stuhlmacher 2002)。備えの厚みは狙いの高さや明確さとは違い、出どころのない数字はあなたの交渉の実測ではない |
| 交渉の名著や研究が示す教えは、そのまま自分の交渉に当てはめれば効く公式だ | 交渉についての実証研究の大半は学生や社会人による模擬交渉で得られたもので、Thompson 1990・Stuhlmacher & Gillespie 2005 が示すように実際の紛争現場での実地実験はまれである。実験室で初対面の協力的な相手と短時間やり取りするのと、生活や事業がかかった相手と長く向き合うのとは条件がまるで違う。教えの由緒と目の前の相手への効き目は別物で、由緒のある地図と目の前の地形は別物として扱う |
| 交渉は相手を打ち負かす競技だから、どんな条件でも合意にこぎつけるのが上手な交渉だ | 交渉は相手を打ち負かす競技ではなく、合意の質を上げる共同作業である。勝ち負けの勝負として構えるほどまとまるものもまとまらなくなる。そして合意しないことが最善の場合があり、悪い合意なら席を立つほうが良いことはしばしばある。だからこの単位でやるのは、資料を増やす前に、目標・これ以下なら受けない境目・まとまらなかったときの別の手の三つを、対話に入る前に自分の言葉で書き出しておくことである |
皮肉なのは、『準備が8割』という耳あたりのよい数字ほど、その出どころを誰も確かめないまま、備えの号令として使い回されてきたことである。文献を探しても、その8割を導いた実証は見当たらない。準備は確かに効くが、効くのは資料の分厚さではなく、どこを狙うかを具体的に決めておくこと——それも、その知見の多くは実験室の模擬交渉から来ている。交渉の名著の教えは実在するが、目の前の相手にそのまま効くかは、また別の話だ。『8割』が備えを約束しているように見えるとき、たいていそれは、まだ誰も、語り草の数字と、自分の交渉で実際に効いたことを、別々に確かめていないだけかもしれない。この棚は『これを言えば勝てる』の棚ではない——教えの由緒と目の前の効き目を分けて見る目を、準備から順に絞って積んでいく棚である。次の単位は 466「落とし所を設計するには?」——決めた狙いをもとに、合意できる幅をどう描くか、という落とし所の設計へ進む。
Q1. この棚の通奏低音①——『準備が交渉の8割』の、その8割に学術的な ____ は無く、実務家の ____ である。教えの由緒と、目の前の相手への ____ は別物で、◯割という数字が付いたら測られたものか語り草かを分けて見る。穴埋め
Q2. 『準備』の効果について、Zetik & Stuhlmacher 2002 ほかが実証で示したこととして正しいものはどれか。選択
Q3. 交渉の教えを『そのまま効く公式』として受け取るべきでないのはなぜか。Thompson 1990・Stuhlmacher & Gillespie 2005 に触れて述べよ。一問一答
Q4. この棚が最初に一度だけ断る、交渉についての二つの構えを述べよ。一問一答
Q5. この単位が扱った研究を、年の早い順に並べよ。(ア)Zetik & Stuhlmacher が高い目標と成果のメタ分析をまとめる(イ)Huber & Neale が目標が交渉者の成果を左右すると示す(ウ)Northcraft らが目標と訓練の組み合わせの効果を示す(エ)Thompson が交渉研究を総括し知見が主に模擬場面に由来すると浮かび上がらせる並べ替え
紙かメモアプリに今日の日付を書く。次に、これから予定している交渉、または直近に行った交渉を一つ思い浮かべる(家賃の更新、外注費の改定、取引条件、身内との取り決めなど、何でもよい)。その交渉について、三つのことを自分の言葉で書き出す——(1) いちばん良ければどうなってほしいか(目標)、(2) これ以下なら受けないという境目(最低ライン)、(3) もしまとまらなかったら、自分はどうするか(別の手)。相手がどう出るかの推測や、相手を試す仕掛けは今はいらない。相手を観察・分析する必要もなく、自分の狙いと引き際の記録だけで完結させる。最後に、三つのうち書けたものの数と、いちばん書きにくかったのはどれかを書き添える。書きにくかったところが、あなたの準備の弱い場所である。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Zetik D.C., Stuhlmacher A.F. (2002) ‘Goal Setting and Negotiation Performance: A Meta-Analysis’, Group Processes & Intergroup Relations 5(1):35-52 — doi.org
- Huber V.L., Neale M.A. (1986) ‘Effects of cognitive heuristics and goals on negotiator performance and subsequent goal setting’, Organizational Behavior and Human Decision Processes 38(3):342-365 — doi.org
- Huber V.L., Neale M.A. (1987) ‘Effects of self- and competitor goals on performance in an interdependent bargaining task’, Journal of Applied Psychology 72(2):197-203 — doi.org
- Northcraft G.B., Neale M.A., Earley P.C. (1994) ‘Joint Effects of Assigned Goals and Training on Negotiator Performance’, Human Performance 7(4):257-272 — doi.org
- Thompson L. (1990) ‘Negotiation behavior and outcomes: Empirical evidence and theoretical issues’, Psychological Bulletin 108(3):515-532 — doi.org
- Stuhlmacher A.F., Gillespie T.L. (2005) ‘Managing Conflict in the Literature: Meta-analysis as a Research Method’, International Negotiation 10(1):67-78 — doi.org