お金で幸福は買えない、という説の根拠は、13年後に本人が測り直して取り下げた
家族の悩みの上位には、いつも金の話がある。ところが世間の教科書は、お金で幸福は買えないと教え、根拠として年収7万5千ドルで幸福は頭打ちになるという有名な研究を挙げる。その研究の著者は13年後、反対の結果を出した若手研究者と組んで自分の数字を測り直し、頭打ちはほとんどの人には存在しない、と発表した。
棚の入口で:家族は、無資格・無研修で始まる
この棚の16単位が扱うのは、人生でいちばん長く続く関係である。生まれる側は親を選べない。作る側は資格試験も研修もなく始める。査定もなければ卒業もなく、それでも何十年か続く。しかも家の中で起きることは外から見えず、記録を取らなければ、当の本人たちにさえ分からない。だからこの棚は、家族を愛情の話としてでも血縁の話としてでもなく、毎日の環境と応答の技術として扱う。
この棚は積み上げ型で、青の4単位は器——関係の前に整えるべき生活の土台——を扱う。経済、安全、衛生、休息。この順で下から積む。下の段が崩れていると、上の段でどれだけ努力しても空回りする、というのがこの棚全体の設計思想である。
最初の単位が経済であることに、がっかりした人がいるかもしれない。家族の話を始めるのに、いきなり金か、と。だが安心してほしい。この単位は資産形成の話をしない。それは金運の棚の持ち場だ。ここで扱うのは、家計が家族の関係の質にどういう経路で効くのか、という一点である。棚の学習の起点は次の034「安全」に置かれているが、その安全基地を建てる敷地を先に見ておくのが、この単位の役目だ。
お金の話は、愛情の話より先に来る
なぜ器の最初が経済なのか。答えは単純で、家計の圧力は、家族の中の誰かが悪くなくても、全員の応答の質を下げるからである。愛情が足りないから険悪になるのではない。余力が足りないから、愛情が出力される前に詰まる。この順序を取り違えると、家計の問題を人格の問題として責め合うことになり、事態は倍速で悪化する。
この経路を実証したのが、家族ストレスモデルと呼ばれる一連の研究だ。舞台は1980年代のアメリカ中西部。農産物価格の暴落と負債で、アイオワの農村経済が崩れた時期である。
アイオワの農場危機が見せた、家計が関係に届く経路
コンガーらの研究チームは、この危機のさなかにあるアイオワ州農村部の白人の2親家庭を追跡した。1994年の報告では、7年生の子どもがいる378家族——女子198人、男子180人——を対象に、質問紙だけでなく、家族の会話を録画して行動を数える方法まで使っている。
見つかった経路はこうだ。収入の低下や負債という経済的困窮そのものは、子どもに直接届いていなかった。届いていたのは、請求書が払えない・切り詰めが要るという日々の実感——研究の用語では経済的圧力——から始まる玉突きである。圧力は親の気分を沈ませ、沈んだ気分は夫婦のあいだの、とりわけ金銭をめぐるとげとげしいやりとりを増やし、そのとげとげしさが子どもへの敵意ある態度や養育の乱れに漏れ出し、そこで初めて思春期の子の抑うつや問題行動に届く。
つまり家計は、いくつもの中継点を経て家族に効く。そして中継点があるということは、途中で止められるということでもある。収入そのものを今日変えることは難しいが、圧力が夫婦の敵意に変換される箇所や、敵意が子への態度に漏れる箇所は、後の単位で扱う技術の守備範囲にある。
このモデルの検証はアイオワで終わらなかった。マサリクとコンガーによる2017年の総説は、その後の四半世紀で、家族の構成も民族も地域も異なる標本——アフリカ系、ラテン系、アジア系の家庭や米国外の家庭——で経路の再現が繰り返され、その多くが縦断設計だったことをまとめている。経路の太さは家庭によって違うが、経路の形はしぶとく再現される。
金額よりも、お金の口論が効く
では、いくらあれば安全なのか。意地の悪いデータがある。デュー、ブリット、ヒューストンが2012年に発表した研究は、全米の家族調査に参加した4,574組の夫婦を追い、初回調査時の口論の種——家事、性、金、親戚など——のうち、どれが後の離婚をいちばん強く予測するかを比べた。答えはお金の不一致で、夫の報告でも妻の報告でも最上位だった。
さらに重要なのは次の一行である。お金の不一致を統計モデルに入れると、資産や負債といった家計の水準そのものは、離婚の予測力を失った。効いていたのは、いくら持っているかではなく、お金についてどう揉めるかのほうだった。
家計の数字は同じでも、それを査定と非難の材料にする家庭と、運転の議題にする家庭がある。予測力を持つのは後者との差である。
7万5千ドルの壁は、測り直したら消えていた
ここで、この単位が値切るべき有名な数字を正面から扱う。2010年、カーネマンとディートンは、米国民45万件の電話調査の回答を分析し、こう報告した。昨日をどんな気分で過ごしたかという感情的な幸福は、年収およそ7万5千ドルで頭打ちになる。一方、自分の人生を梯子の何段目と評価するかという人生評価は、収入とともに上がり続ける。この7万5千ドルという数字だけが独り歩きし、お金で幸福は買えないことの科学的証明として世界中に流通した。
2021年、キリングスワースが別の方法で測り直した。スマートフォンに1日数回、いまどんな気分かを尋ねる通知を送る経験サンプリングで、働く米国成人3万3,391人から172万5,994件の、その場の気分の報告を集めたのである。思い出して答える調査より、記憶の加工が入りにくい。結果、感情的な幸福は収入の対数に沿ってどこまでも上がり続け、7万5千ドルにも、それ以上にも、折れ曲がる点は見つからなかった。
正面衝突した2人は、珍しい解決策を選んだ。2023年、カーネマンとキリングスワースは、審判役のメラーズを加えて敵対的協働——対立する研究者どうしが、相手の仮説が勝つ条件を先に決めてから同じデータを検証する共同研究——を行った。決着はこうだ。頭打ちは実在するが、起きるのは標本の中で最も不幸な約2割だけで、その人たちも年収10万ドル前後までは収入とともに苦痛が減る。多数派の幸福は収入とともに上がり続け、最も幸福な約3割では、10万ドルを超えるとむしろ関係が加速していた。2010年の測定は、幸福の上限ではなく不幸の下限を測っていた、というのが3人の共通の結論である。
失恋、死別、深い抑うつ。そうした種類の苦しみを抱える人には、お金は途中から効かなくなる。逆に言えば、それ以外の大多数にとって、収入が増えて悪いことは統計上ほとんど見つからなかった。お金で幸福は買えないという格言は、慰めとしては優秀だが、データとしては値切られた後である。
お金が買っているのは、幸福ではなく余力である
ただし、この決着を家族の文脈に持ち帰るときは、翻訳が一つ要る。収入が幸福を直接買っているのではない。カーネマンとディートンの2010年の分析にも重要な付帯所見があって、収入の効果は金額の差ではなく比率の差で効く。年収300万円の家庭の10万円と、年収1千万円の家庭の10万円は、同じ金額でも重みがまるで違う。
そして家族ストレスモデルに戻れば、家計が買っているものの正体が見える。それは応答の余力である。予定外の出費に対応できる貯えは、圧力が夫婦の会話に変換されるのを防ぐ緩衝材になる。外注できる家事は、夕方の消耗を減らす。つまりお金は、家族の一人ひとりが互いにまともに応答するための、時間と神経の在庫を買っている。
だからこの単位の実践は、収入を増やせという話にならない。在庫の漏れを見つけて、圧力が敵意に変換される中継点を一つ塞ぐ、という話になる。
時間・変化:家計の傷は、時間差で家族に届く
家族ストレスモデルのもう一つの教訓は、時間差である。アイオワの研究が縦断設計——同じ家族を年単位で繰り返し測る方法——を必要としたのは、経済的圧力が子どもに届くまでに、親の気分、夫婦の空気、養育の質という中継点を順に通るからだ。今日の減収が食卓の空気に出るのは数カ月後、子の行動に出るのはさらに先ということが普通に起きる。
この時間差は、二重に人を欺す。悪くなるときは、原因と結果が離れているせいで、家計の圧力が原因だと誰も気づかず、性格や愛情の問題として責め合いが始まる。良くなるときも同じで、お金の会話を立て直した効果は、すぐには空気に表れない。数週間の遅れを見込んでいない家庭は、効いていないと判断して、改善を途中でやめる。
変化を見たければ、記憶ではなく記録が要る。この棚で繰り返し出てくる原則だが、最初の単位から早速必要になる。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、お金の話のタブー視である。多くの家庭で、お金の話は問題が起きたときにだけ持ち出される。つまりお金の話イコール緊急事態の通告であり、切り出された側は査定と非難を予期して身構える。デューらのデータが示したとおり、予測力を持つのは金額ではなく揉め方だから、この構えこそが最悪の初期条件になる。
もう一つの妨げは、把握のなさそのものだ。固定費をいくら払っているか即答できない状態は、それ自体が経済的圧力の増幅器になる。正体の分からない不安は、正体の分かった問題より大きく感じられる。
断っておくべきこともある。この単位の数字の土台には偏りがある。家族ストレスモデルの原型はアイオワ農村部の白人2親世帯であり、幸福と収入の研究は米国の、しかも大半が雇用されている成人の自己報告である。日本の、あるいはあなたの家計にそのまま同じ金額の閾値が当てはまる保証はない。経路の形は信用してよいが、数字は各家庭で測り直すべきものだ。
助けるのは、お金の話を緊急事態の通告から定例の運転会議に変えることである。問題が起きてから話すのではなく、問題がなくても短く話す。議題を1つに絞り、金額の確認から始めて、犯人捜しをしない。それだけで、同じ家計の数字がまったく別の会話を生む。
最初の一歩は15分でいい。今日、自分の家の固定費のうち、金額を即答できないものを3つ選んで、正確な数字を調べて書き出す。同居の家族がいれば、感想も評価も付けずに数字だけ共有する。一人で親やきょうだいと関わっている人なら、まず自分の家計で同じことをすればいい。数字を3つ確定させるだけで、正体不明の圧力が1段減る。
次の単位は 034「安全」——この棚の学習の起点である。家計という敷地の上に最初に建てるべきもの、すなわち家族が互いにとっての安全基地になるとはどういうことかを扱う。そこでは、生まれて最初の1年で人生が決まるという有名な説を、20年の追跡データで値切ることになる。
- Conger et al. 1994(Child Development)はアイオワ州農村部の7年生の子がいる378家族(女子198人・男子180人)を縦断調査し、経済的困窮が経済的圧力→親の気分の落ち込み→金銭をめぐる夫婦の敵意→養育の乱れという中継点を順に通って思春期の子の情緒・行動問題に届く家族ストレスモデルの経路を実証した
- Masarik & Conger 2017(Current Opinion in Psychology)の総説によれば、家族ストレスモデルの経路は家族構成・民族・地域の異なる標本で繰り返し再現されており、その多くは縦断設計の研究である
- Dew, Britt & Huston 2012(Family Relations)は全米調査の夫婦4,574組を追跡し、お金をめぐる不一致が夫・妻どちらの報告でも離婚の最強の予測因子で、不一致をモデルに入れると資産や負債といった家計の水準は予測力を失うことを示した
- Kahneman & Deaton 2010(PNAS)は米国民45万件の回答を分析し、感情的な幸福は年収およそ7万5千ドルで頭打ちになる一方、人生評価は収入の対数とともに上がり続けると報告した。収入の効果は金額の差ではなく比率の差で効く
- Killingsworth 2021(PNAS)は働く米国成人3万3,391人から172万5,994件の経験サンプリング報告を集め、その場で測った感情的な幸福も収入の対数に沿って上がり続け、7万5千ドルに折れ曲がりの点は存在しないことを示した
- Killingsworth, Kahneman & Mellers 2023(PNAS)の敵対的協働は、頭打ちが起きるのは最も不幸な約2割だけで、その人たちも年収10万ドル前後までは苦痛が減り続け、最も幸福な約3割では10万ドル超で収入と幸福の関係がむしろ加速すると決着させた。2010年の測定は幸福の上限ではなく不幸の下限を測っていた
- 家計が家族に効く経路の含意は、金額そのものより、圧力が夫婦の敵意に変換される中継点にある。実務上の介入点は、お金の話を緊急事態の通告から議題1つの定例の運転会議へ変えることと、固定費の把握で正体不明の圧力を減らすことである
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 年収7万5千ドルを超えたら、お金は幸福と関係なくなると科学的に証明されている | 2021年の172万件超の経験サンプリングで頭打ちは見つからず、2023年に原著者本人が参加した敵対的協働で、頭打ちは最も不幸な約2割にだけ、10万ドル前後で起きると修正された。多数派の幸福は収入とともに上がり続け、最も幸福な約3割ではむしろ加速していた |
| 家族のお金の問題は、収入が増えさえすれば解決する | 4,574組の追跡では、離婚を予測したのは家計の水準ではなくお金をめぐる不一致だった。家族ストレスモデルでも、子に届くのは収入の低下そのものではなく、圧力が夫婦の敵意と養育の乱れに変換された後の形である。収入は緩衝材を買えるが、変換点を塞ぐのは会話の設計のほうだ |
| お金の心配を家族に見せるのは良くないから、家計の話は一人で抱えるべきだ | 経路研究が示す害は、お金の話題そのものではなく、金銭をめぐる敵意あるやりとりである。話題を隠すと、把握のなさが圧力を増幅し、緊急事態になってから最悪の形で噴き出す。害を減らすのは沈黙ではなく、非難を含まない定例の短い会話である |
お金で幸福は買えない、という格言がこれほど愛されてきた理由を考えてみるといい。この格言は、お金の話をしなくて済む口実を、道徳の顔をしてくれる。家計の数字を確かめる15分より、愛情を語る1時間のほうが心地よいに決まっている。だが、その根拠だった論文の著者は自分の数字を測り直して結論を修正し、離婚を最もよく予測するのは、ほかならぬお金の話の揉め方だと分かっている。家族にとっていちばん高くつく贅沢は、高い買い物ではない。お金の話を避け続けることのほうである。
Q1. Dew, Britt & Huston(2012)は全米調査の夫婦____組を追跡し、離婚をいちばん強く予測した口論の種は____をめぐる不一致で、これをモデルに入れると____の水準そのものは予測力を失うことを示した。穴埋め
Q2. Kahneman & Deaton(2010)が45万件の回答で報告した、2つの幸福の指標とそれぞれの収入との関係を答えよ。頭打ちの金額にも触れること。一問一答
Q3. Killingsworth, Kahneman & Mellers(2023)の敵対的協働が出した決着として正しいものはどれか。選択
Q4. Killingsworth(2021)の研究の方法と規模、および主結果を答えよ。一問一答
Q5. 家族ストレスモデル(Conger et al. 1994)が示した、家計の傷が子どもに届くまでの経路を正しい順に並べよ。(夫婦間の敵意/経済的圧力/養育の乱れ/親の心理的苦痛/経済的困窮)並べ替え
自分の家計の固定費(家賃・住宅ローン、通信費、保険、サブスクリプション、光熱費の月平均など)のうち、正確な金額を即答できないものを3つ選び、明細や口座を確認して正確な月額を調べ、書き出す。同居の家族がいる人は、感想も評価も付けずに、数字だけを一言で共有する(例:うちの通信費は月◯◯円だった)。家族と同居していない人・疎遠な人は、自分の家計の3つの数字を確定させるだけでよい。犯人捜しと反省会は今日はしない。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- Conger R.D., Ge X., Elder G.H., Lorenz F.O., Simons R.L. (1994) 'Economic Stress, Coercive Family Process, and Developmental Problems of Adolescents', Child Development 65(2):541-561 — srcd.onlinelibrary.wiley.com
- Masarik A.S., Conger R.D. (2017) 'Stress and child development: a review of the Family Stress Model', Current Opinion in Psychology 13:85-90 — www.sciencedirect.com
- Dew J., Britt S., Huston S. (2012) 'Examining the Relationship Between Financial Issues and Divorce', Family Relations 61(4):615-628 — onlinelibrary.wiley.com
- Kahneman D., Deaton A. (2010) 'High income improves evaluation of life but not emotional well-being', PNAS 107(38):16489-16493 — www.pnas.org
- Killingsworth M.A. (2021) 'Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year', PNAS 118(4):e2016976118 — www.pnas.org
- Killingsworth M.A., Kahneman D., Mellers B. (2023) 'Income and emotional well-being: A conflict resolved', PNAS 120(10):e2208661120 — www.pnas.org