「病識がない」という一行に、5つの別々の話が押し込められている
自分の病気をわかっているか、と聞かれて、はい か いいえ で答えられる気がしたなら、その感覚こそがこの単位の標的である。臨床の現場で長年カルテに書かれてきた病識なし という一行は、少なくとも5つの別々の状態を一緒くたに潰した表現だった。そしてもう一つ、あまり歓迎されない発見がある——病識は、増えるほど気が楽になるとは限らない。
この棚の入口で、一度だけ地図を広げる
病気は、本人の同意なしに始まり、終わる日付も本人には決められない。しかも医療が扱うのは体と病であって、その病を抱えて過ごす一日ではない。診察室にいる時間は年に数時間、残りの何千時間かは本人が運転している。この棚は、病気を治す話でも気の持ちようの話でもなく、治療の外側にある毎日を運転する技術の話だ。読者は、治療が終わっても続く毎日を持つ人すべてだ——精神疾患から、がん、難病、けがの長期の回復まで。
出発点に、当事者運動が精神保健に持ち込み、慢性疾患やリハビリテーションにも広がった、回復(リカバリー)の定義を借りる。ウィリアム・アンソニーが1993年に Psychosocial Rehabilitation Journal に書いた一文——回復とは、態度・価値・感情・目標・技能・役割を変えていく、深く個人的で固有の過程であり、病気による制約があってもなお、満足のいく、希望のある、貢献する生き方をすることである。
ここには、症状がゼロになる が入っていない。症状の消失を臨床的回復と呼ぶなら、これは個人的回復(パーソナル・リカバリー)だ。症状が残ったまま人生が動き出す人も、消えたのに止まったままの人もいる。
リーミーらが2011年に British Journal of Psychiatry に発表した系統的レビューは、5,208本から絞った97論文——13カ国・87研究——を統合し、個人的回復を5つの過程に整理した。つながり、希望と将来への楽観、アイデンティティ、人生の意味、エンパワメント。頭文字で CHIME と呼ばれる。道のりの特徴も13点挙げ、直線ではないとした。
この5つは、棚の設計図でもある。青の4単位は器——自分の状態を見る道具。緑は態度、橙は運用、桃は統合。下の段が崩れていると上の段は空回りする。だから起点はいちばん地味な道具だ。
なお、症状が急に悪化しているとき、自傷の考えや強い絶望があるときは技術論の外側の問題で、いま医療につながることが先だ。以下はその一線の内側の話だ。
病識という言葉は、壊れたまま流通してきた
精神医学では長いあいだ、病識は臨床家の印象で 有る か 無い かとして記載されてきた。効率のよい一行で、中身は空だった。
アンソニー・デイヴィッドが1990年に British Journal of Psychiatry に書いた論文は、これを3つの成分に割った。自分が病気であるという認識。異常な体験を異常なものとして名前を付け直せること。治療を受け入れること。3つは関連するが一致はしない——そこが眼目だ。3つがずれている人たちは、それまで同じ 病識に乏しい という一行に潰されていた。
有るか無いかではなく、つまみが5本
アマドールらが1994年に Archives of General Psychiatry に発表した多施設研究は、412人を SUMD——精神疾患の無自覚を評定する尺度——で測った。この尺度は3つの全般項目——病気を抱えているという自覚、薬の効果の自覚、その病気がもたらす社会的な結果の自覚——を置き、さらに症状ごとに、その症状に気づいているか と、それを病気に帰属させているか を別々に評定する。合わせて5本のつまみだ。
気づき と 帰属 を分けたのが、この尺度の最も実用的な発明だ。眠れないことに気づいてはいても、それを病気の一部と考えるか気の緩みと考えるかは別だ。ここで病識は二値のスイッチから調光卓に変わった。
412人のうち統合失調症の診断群では、精神疾患を抱えているという自覚について57%が中等度から重度の不足を示した。大事なのは数字より、それが どの成分についてか が明示された点だ。
病識がない と言われる状態は、たいてい、症状に気づいてはいるが病気に帰属させていない か、病気だとは思うが薬が効いている実感がない かだ。前者に要るのは説明、後者に要るのは相談。二値の記載は、この分岐を毎回捨てていた。
誰でも持っている、病の説明モデル
慢性疾患の研究者は、病識ではなく説明モデルという言い方をする。レヴェンサールらのコモンセンス・モデル(常識モデル)では、人は症状や診断を受け取ると、専門家に教わるより先に自分なりの説明をおおむね5つの軸で組み立て、それに沿って対処を選び、結果を見て書き換える。
ハガーとオーベルが2003年に Psychology & Health に発表したメタ分析は、このモデルを使った45研究を統合した。病気をコントロールできる・治しうると捉える人ほど、再評価や問題焦点の対処を使い、心理的健康・社会的機能・活力の得点が高い。逆に、症状が濃い・慢性である・結果が重大だと捉えるほど、回避と情動中心の対処が増える。因果ではない。同じ病名・同じ重症度でも説明モデルはかなり違い、そのばらつきだけが本人の手の届く範囲にある。
ブロードバントらが2006年に Journal of Psychosomatic Research で発表した簡易版の尺度は、質問がたった9つ。8つを0から10の数直線で答え、最後の1つは 原因は何だと思うか の自由記述だ。心筋梗塞の103人、腎疾患の132人、2型糖尿病の119人、喘息の309人などで検証されている。待合室で書き終わる長さだ。
否認は、常に敵か
否認は常に有害である、という前提を、時期という変数で割ってみる。
レヴァインらが1987年に Psychosomatic Medicine に発表した研究は、心筋梗塞または冠動脈バイパス手術で入院した男性45人の否認の強さを評定し、うち30人を退院後1年追跡した。急性期には、否認が強い群のほうが集中治療室にいた日数が短く、心機能の異常のサインも少なかった。1年後に符号が反転し、否認が強かった群のほうが医療上の推奨に従わないことが多く、再入院日数が長かった。急性期には適応的、長期には非適応的、というのが結論だった。
急性期の数日、大したことではない という構えは負荷を下げる。同じ構えを半年続けると、通院と生活調整の側から請求書が回ってくる。ここから、だから否認していい という結論は出ない。時期依存は否認を許可も禁止もせず、それを人格の欠陥として扱うのをやめさせる。45人の男性のみ、1980年代の治療体制での小標本でもある。
わかることは、そのまま楽になることではない
病識は多いほど良い、とは限らない。
ベルヴェデーリ・ムッリらが2015年に Schizophrenia Research に発表したメタ分析は、59の相関研究・9,276人を統合した。病識が良いほど抑うつ症状はわずかに高い(r=0.14)。成分別では、症状への気づき r=0.14、症状の帰属 r=0.17、病気を抱えているという自覚 r=0.14、自分の考えを疑う力——認知的病識——が r=0.13。一方、社会的な結果の自覚(r=0.06)と、このメタ分析が別立てで集計した治療の必要性の自覚(r=0.03)は、有意な関連を示さなかった。
r=0.14 は小さい。だが方向は一貫していて、病識のパラドックスと呼ばれる現象と符合する。媒介していたのは病気ではなく、絶望感、内面化されたスタイグマ——自分に向け直された社会の偏見——、差別された経験だ。認識が沈ませるのではなく、認識に付いてくる社会的な意味づけが沈ませる。
抑うつと結びつかなかった2つは、行動に直結する成分でもある——社会的な結果の見積もりと、治療との付き合い方。上げても代償の出なかった2本だ。
時間・変化:認識は、診断の日に完成しない
診断名を告げられた日を、認識の完成日だと思う人は多い。ここまでの3つの研究はそろって逆を示す。適応的な構えは時期で入れ替わり、説明は結果を見て更新され続け、5本のつまみは同じ速度では上がらない。
認識は少なくとも3つの時間帯で別々に動く。第一に、診断直後の数週間——情報が多すぎ、否認がまだ仕事をしている時期。第二に、数カ月——気づきと帰属が分かれて動く時期。眠れないのは病気か、季節か、仕事か。第三に、年単位——社会的な結果と薬との付き合い方が、現実に合わせて何度も書き換わる時期。
この棚の残りの15単位は、ほとんどが3つ目で効いてくる。1つ目にいる人が技術の話に乗らないのは、怠慢でも病理でもなく、時期が合っていないだけのことが多い。
妨げるもの、助けるもの、最初の一歩
妨げるものの筆頭は、病識という言葉そのものだ。二値のまま日常語に漏れ出し、当事者も内面化する。わかっている か いない か だと思い込むと、どのつまみが下がっているかを見に行く動機が消える。第二の妨げは逆方向で、疲れも苛立ちも失敗も全部が病気のせい、という説明は解像度を下げ、次の一手を作らない。
標本の偏りを断る。病識研究の数値の多くは精神科の、それも統合失調症圏の入院・外来標本から来ており、欧米の中規模・横断研究に偏る。説明モデルの研究は慢性疾患へ広がったが、こちらも自己報告に頼る。重い人ほど研究に入りにくく脱落もしやすく、比率は軽症寄りに歪む。数字は方向だけ持ち帰るのが誠実だ。
助けるのは、質問の粒度を上げることだ。私は病識があるか、という問いは答えようがない。答えられるのは5本のつまみそれぞれについての問いだけで、同じ高さである必要はない。
最初の一歩は10分。ブロードバントらの9問の構造を借りて、生活への影響から気持ちの動揺までの8つを0から10の数直線に置き、原因は何だと思うかを一行で書く。点数の高低ではなく、8つが揃っていない事実に意味がある。揃ったなら、測ったのではなく気分を8回書いただけだ。
次の単位は 002「感情識別・命名力」——今日は病気への認識を5本に割った。次は自分の内側の状態を割る。だるさと悲しさと不安を同じ 調子が悪い に押し込めているうちは、どのつまみを回すかが決まらない。そこには、名前を付ければ楽になる という効果量の小さい人気の俗説が待つ。
- David 1990(British Journal of Psychiatry 156:798-808)は、それまで有無の二値で記載されてきた病識を3つの成分に分けた——自分が病気であるという認識、異常な体験を異常なものとして名前を付け直す力、治療を受け入れること。3つは関連するが一致しない
- Amador et al. 1994(Archives of General Psychiatry)は412人の多施設研究で SUMD を用い、3つの全般項目——病気を抱えているという自覚・薬の効果の自覚・社会的な結果の自覚——に加え、個々の症状について 気づき と 病気への帰属 を別々に評定した。統合失調症の診断群では、精神疾患を抱えているという自覚について57%が中等度から重度の不足を示した
- Leventhal らのコモンセンス・モデルは、人が診断より先に自前で組み立てる説明モデルを5軸(これは何か・原因・時間経過・結果・コントロール可能性)で捉える。Hagger & Orbell 2003(Psychology & Health 18:141-184)の45研究のメタ分析では、コントロール可能と捉える人ほど再評価と問題焦点の対処を使い、心理的健康・社会的機能・活力が高かった
- Broadbent et al. 2006(Journal of Psychosomatic Research 60:631-637)の簡易版尺度は9問——8問を0〜10の数直線、1問を原因の自由記述——で説明モデルを測る。心筋梗塞103人・腎疾患132人・2型糖尿病119人・喘息309人などで検証された、待合室で書き終わる長さの道具である
- Levine et al. 1987(Psychosomatic Medicine 49:109-117)は心筋梗塞・冠動脈バイパス手術の男性45人を評定し30人を1年追跡した。否認が強い群は集中治療室の日数が短く心機能の異常も少なかったが、1年後には医療上の推奨に従わないことが多く再入院日数が長かった。否認は急性期に適応的、長期には非適応的
- Belvederi Murri et al. 2015(Schizophrenia Research 162:234-247)は59研究・9,276人のメタ分析で、病識が良いほど抑うつがわずかに高い(r=0.14)ことを示した。症状の帰属 r=0.17、認知的病識 r=0.13。一方、社会的な結果の自覚(r=0.06)と治療の必要性の自覚(r=0.03)は抑うつと有意に関連せず、媒介していたのは絶望感・内面化された偏見・差別経験だった
- Anthony 1993(Psychosocial Rehabilitation Journal 16(4):11-23)の回復の定義には症状の消失が入っていない。Leamy et al. 2011(British Journal of Psychiatry 199:445-452)は13カ国・87研究・97論文の系統的レビューで個人的回復を5過程(つながり・希望と楽観・アイデンティティ・意味・エンパワメント)に整理し、回復の道のりの特徴を13点挙げた
| よくある誤解 | 実際のところ |
|---|---|
| 病識は有るか無いかのどちらかで、自分は自分の病気をわかっている側だ | David 1990 は病識を3成分に、Amador らの SUMD は病気を抱えているという自覚・薬の効果の自覚・社会的な結果の自覚・症状ごとの気づき・症状ごとの帰属に分けて別々に評定する。5本のつまみが同じ高さである必要はなく、実際そうなっていない。答えられるのは 私は病識があるか ではなく、どの成分がいま何合目か、という問いだけである |
| 否認は常に有害だから、一刻も早く現実を受け入れさせたほうがよい | Levine et al. 1987 の45人の研究では、否認の強い群は急性期に集中治療室の日数が短く心機能の異常も少なかったが、1年後には推奨への不遵守と再入院日数の多さに反転した。否認の良し悪しは時期に依存する。これは否認の推奨ではなく、否認を人格の欠陥として扱うことをやめる理由である |
| 自分の病気をよく理解しているほど、気持ちも安定するはずだ | 59研究・9,276人のメタ分析では、病識が良いほど抑うつはわずかに高かった(r=0.14)。ただし媒介していたのは絶望感・内面化された偏見・差別経験であり、病識そのものではない。社会的な結果の自覚(r=0.06)と治療の必要性の自覚(r=0.03)は抑うつと有意に関連しなかった——行動に直結し、代償が観測されなかった2本である |
病識なし という一行は、書くのに2秒しかかからない点で、たいへんよくできた表現である。5つの成分を別々に評定すれば10分かかるし、そのうえ答えは、3本は上がっていて2本は下がっている、というきれいに要約できない形で返ってくる。要約できないものを要約したくなるのは人間の性で、そこに二値のスイッチが差し出されると、つい押してしまう。皮肉なのは、そのスイッチを押した瞬間に、次にやることの手がかりが全部消えることだ。わかっている か わかっていない かを決めた人は、もう何も調べなくて済む——それが、この一行のいちばんの効能である。
Q1. Amador らの412人の多施設研究で使われた尺度が、個々の症状について別々に評定する2つのことは何か。またそれを分ける実用上の利点を一言で述べよ。一問一答
Q2. Belvederi Murri らのメタ分析(____研究・9,276人)では、病識が良いほど抑うつはわずかに高く、全般の相関は r=____ だった。成分別では症状の帰属が r=____ と最も高い一方、____ の自覚(r=0.06)と ____ の必要性の自覚(r=0.03)は抑うつと有意な関連を示さなかった。穴埋め
Q3. Levine ら(1987)が心筋梗塞・冠動脈バイパス手術の男性45人を1年追跡して得た結果として、本文の内容に合うものはどれか。選択
Q4. 本文が示した、認識が動く3つの時間帯を、診断・発症の日から近い順に並べよ。(生活への影響と治療との付き合い方が現実に合わせて書き換わる/情報が多すぎ否認がまだ荷を下ろしている/症状への気づきと病気への帰属が分かれて動きはじめる)並べ替え
Q5. 本文が示した、この棚の起点に置かれた回復の定義には何が含まれていないか。またその定義を分解した13カ国87研究の系統的レビューが挙げた5つの過程を答えよ。一問一答
紙かメモアプリに1から8の番号を書き、いま自分が抱えているもの——診断名でも、体調でも、通院中の何かでもよい——について、0から10で点を付ける。①生活にどのくらい影響していると思うか ②この状態はどのくらい続くと思うか ③自分でできることはどのくらいあると思うか ④治療や支援でできることはどのくらいあると思うか ⑤症状はどのくらい強く出ていると思うか ⑥どのくらい心配か ⑦自分の状態をどのくらい理解できていると感じるか ⑧どのくらい気持ちが動揺するか。最後に、原因は何だと思うかを一行だけ書き添える。8つの数字と一行を記録して終了。病気を抱えていない人・治療中でない人は、いま自分が困っている体の不調か生活上の不調を1つ選び、同じ8問に答えればよい。点数の高低は評価しない。見るのは、8つが揃っていないという事実だけである。
——とはいえ、その“正しい用法・用量”は、まだ誰も知らない。ここまでの研究に、あなたのデータは1件も入っていないからだ。平均は地図にすぎない。自分の“いい具合”は、試して探すしかない。
あなたの実験(N=1)を始める → プロジェクトに追加(記録機能は準備中)
- David A.S. (1990) 'Insight and psychosis', The British Journal of Psychiatry 156:798-808 — pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
- Amador X.F., Flaum M., Andreasen N.C., Strauss D.H., Yale S.A., Clark S.C., Gorman J.M. (1994) 'Awareness of Illness in Schizophrenia and Schizoaffective and Mood Disorders', Archives of General Psychiatry 51(10):826-836 — jamanetwork.com
- Hagger M.S., Orbell S. (2003) 'A Meta-Analytic Review of the Common-Sense Model of Illness Representations', Psychology & Health 18(2):141-184 — repository.essex.ac.uk
- Broadbent E., Petrie K.J., Main J., Weinman J. (2006) 'The Brief Illness Perception Questionnaire', Journal of Psychosomatic Research 60(6):631-637 — www.fmhs.auckland.ac.nz
- Levine J., Warrenburg S., Kerns R., Schwartz G., Delaney R., Fontana A., Gradman A., Smith S., Allen S., Cascione R. (1987) 'The role of denial in recovery from coronary heart disease', Psychosomatic Medicine 49(2):109-117 — pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
- Belvederi Murri M., Respino M., Innamorati M., Cervetti A., Calcagno P., Pompili M., Lamis D.A., Ghio L., Amore M. (2015) 'Is good insight associated with depression among patients with schizophrenia? Systematic review and meta-analysis', Schizophrenia Research 162(1-3):234-247 — www.sciencedirect.com
- Anthony W.A. (1993) 'Recovery from mental illness: The guiding vision of the mental health service system in the 1990s', Psychosocial Rehabilitation Journal 16(4):11-23 — recoverydevon.co.uk
- Leamy M., Bird V., Le Boutillier C., Williams J., Slade M. (2011) 'Conceptual framework for personal recovery in mental health: systematic review and narrative synthesis', The British Journal of Psychiatry 199(6):445-452 — www.cambridge.org